佐竹貞義(さたけ・さだよし) 1287〜1352

佐竹行義の子。母は二階堂頼綱の女。通称は次郎。駿河守・遠江守・上総介・常陸介。室は海上胤泰の女。常陸守護。
嘉元元年(1303)、常陸国多賀郡竜狐山に興禅寺を建立、入道して崑山(昆山)道源と号す。
嘉元3年(1305)、臨済宗に帰依。
嘉暦2年(1327)頃より陸奥国好島東荘の預所職となる。
元徳3:元弘元年(1331)の元弘の変に際しては鎌倉幕府軍として、後醍醐天皇が籠城した山城国笠置山の攻囲戦に加わっている。
庶子で僧となった月山周枢が夢窓疎石に学んだ所縁から、同じく疎石に帰依した足利尊氏との関係を深め、建武2年(1335)の中先代の乱に際しては一族を率いて鎌倉に参じて尊氏の弟・足利直義に合力し、武蔵国鶴見の合戦では敗北を喫したが、それらの功績によって同年11月には尊氏より常陸守護に任じられている。
尊氏は中先代の乱を鎮圧したのちも鎌倉に留まって建武政権から離脱し、追討軍として差し向けられた新田義貞軍を撃退して畿内に追撃したが、その尊氏軍を追撃するために陸奥国の多賀国府から北畠顕家率いる軍勢が発向すると、その迎撃のために出陣したが、12月上旬に天皇方の常陸国那珂西城主・那珂通辰の急襲を受けて敗れた(甕(みか)の原の合戦)。
建武3:延元元年(1336)4月頃に北畠顕家が再び陸奥国に下向するにあたって常陸国でも天皇方勢力の活動が活発になり、瓜連城に拠る楠木正家・小田治久・大掾高幹らとの抗争が激化。これと前後して尊氏に従って畿内で戦っていた嫡男の義篤や二男の義春とも合流を果たし、同年12月には瓜連城を陥落させた。
その後も鎌倉の足利義詮や鎌倉府執事(のちの関東管領)・高師冬に従って常陸国の南朝勢力撃退に尽力し、その恩賞として貞和2:正平元年(1346)5月に常陸国田中荘地頭職4分の1、その翌年には常陸国行方郡や上総国天羽7郷などのほか、常陸国の那珂西郡塩籠荘や久慈郡中寺田村などの地頭職をも得て、先祖以来の旧領をほぼ回復した。
観応3(=文和元):正平7年(1352)9月10日に没した。享年66。法名は道源。