小田治久(おだ・はるひさ) 1283〜1352

小田貞宗の子。初名は高知。尾張権守・宮内権少輔・常陸介。常陸国小田城主。
嘉暦2年(1327)、父に代わって陸奥国津軽の安藤氏の乱を平定し、翌年に鎌倉に帰還した。
元弘の乱では鎌倉幕府軍として活動したが、元弘3年(1333)5月の鎌倉幕府の滅亡後には囚人として預かっていた後醍醐天皇の近臣・万里小路藤房を連れて上洛し、後醍醐天皇の興した建武政権に仕えた。このときに天皇の諱(尊治)から一字を与えられて治久と改名し、常陸守護に任じられたともいう。
建武2年(1335)に足利尊氏が建武政権より離脱し、政権が宮方(後醍醐天皇方)と武家方(足利尊氏方)に分裂したのちも後醍醐天皇方に従い、皇家が南朝(後醍醐天皇方)と北朝(光厳上皇・足利尊氏方)に分裂すると南朝に属し、建武3:延元元年(1336)には常陸国の瓜連城などに拠って南朝方の将・楠木正家を助け、北朝勢と戦った。
暦応元:延元3年(1338)9月、海路から東国に向かう途中で難破して常陸国に漂着した北畠親房を自城の小田城に迎え、北朝より差し下された高師冬らと戦ったが劣勢を強いられ、暦応4:興国2年(1341)11月に佐竹義篤を通じて降伏した。
以後は北朝に属し、師冬に従って南朝勢の拠点である常陸国の関・大宝両城の攻略に加わった。
文和元:正平7年(1352)12月11日没す。享年70。法名は妙光院索准覚翁。