高師冬(こう・もろふゆ) ?〜1351

足利家臣。高師行の子。高師秋の弟。高師泰師直兄弟の従兄弟にあたり、足利尊氏の執事である師直の猶子となった。四郎左衛門尉と称す。三河守・播磨守。武蔵・伊賀守護。
暦応元:延元3年(1338)9月、南朝方が退勢を挽回するために派遣した北畠親房が常陸国小田城に拠ると、これに対抗するため翌暦応2:延元4年(1339)に鎌倉へと派遣され、上杉憲顕とともに鎌倉府執事(のちの関東管領)として足利義詮を補佐した。
同年には下総国や下野国を経て常陸国に入り、同年10月から翌年5月にかけて駒城を攻めて陥落させ、ついで瓜連城を拠点として小田城を攻め、暦応4:興国2年(1341)11月には小田城主の小田治久を降伏させて北畠親房を関城、親房の子・春日顕国を大宝城に逐い、康永2:興国4年(1343)11月に高一族の三戸師親らと協力して関・大宝および伊佐城を落とし、関東の平定を完了する。
この間に師冬は武蔵守護を勤めているが、帰京後の貞和3:正平2年(1347)には伊賀守護に転じ、また三河守から播磨守に移る。
貞和元:興国6年(1345)8月末には京都天龍寺の落慶供養に供奉し、また足利直義と醍醐・宇治に遊宴している。
貞和4:正平3年(1348)1月の四条畷の合戦にも参陣。
貞和5:正平4年(1349)10月、高師直らの圧力を受けて隠退した直義の政務を義詮が引き継ぐこととなって上洛するに伴い、その後任として義詮の弟・足利基氏が鎌倉公方に任じられると師冬は上杉憲顕とともにその執事として補佐することになり、翌年1月に再び関東に下向した。
しかし12月に直義が南朝と和して畿内で兵を挙げると、直義党であった上杉憲顕・能憲父子が呼応して挙兵したため、これを討つため同月25日に基氏を奉じて鎌倉より出陣したが、石塔義房らの襲撃を受けて基氏を奪われて甲斐国へと没落し、翌観応2:正平6年(1351)1月17日、甲斐国須沢城で上杉憲将ら直義党勢力の兵に囲まれて自害した(観応の擾乱)。