佐竹義盛(さたけ・よしもり) 1365〜1407

常陸国佐竹氏第11代。10代・佐竹義宣の子。母は河越氏の女。通称は次郎。室は江戸氏の女。左馬権頭。
康応元年:元中6年(1389)7月の父の死後に家督を相続し、常陸守護となる。またこの年には譜代93騎を中心とする家臣団の名簿が見られ、この頃には守護大名としての格式や体制が整えられていったことがうかがわれる。
応永6年(1399)、鎌倉公方・足利満兼が関東地方の雄族8家に屋形の称号と朱の采幣(采配)を免許しているが(関東八屋形)、佐竹氏もこれに任じられている。またこの年には鎌倉に多福寺を建立し、入道して多福寺殿と号し、法名を大淳常盛と称した。
応永11年(1404)8月3日の越中守護代沙弥長護(遊佐国長)遵行状によれば、越中下与河保半分を佐竹常盛(義盛)の代官に渡付することを越中守護の畠山基国から命じられているから、この頃の同保の半分はまだ佐竹氏の領有するところであったことが知られる。
応永14年(1407)9月21日没す。享年43。多福寺院殿大淳常盛大禅定門。
男子なく没したため、娘に関東管領・上杉憲定の二男である龍保丸(のちの佐竹義憲)を娶せて嗣子としたが、これに反発する一派が龍保丸の入部を阻止する行動に出たため、鎌倉府から軍事介入を招くほどの内訌となった。