常陸国佐竹氏第10代(19代の佐竹義宣は同名異人)。佐竹義篤(9代)の子。母は小田知貞の娘。通称は小二郎。初名は義香。室は河越氏の女。従五位下・左馬頭・左近将監・伊予守。常陸守護。
文和4:正平10年(1355)2月、足利尊氏に随従して転戦する父・義篤から所領を譲られており、弘安2(=貞治元):正平17年(1362)1月の義篤の死後、常陸守護を継承した。
貞治2:正平18年(1363)6月に鎌倉公方・足利基氏が上杉憲顕を関東管領に再任した際、宇都宮氏綱やその守護代・芳賀高名(禅可)が憲顕の復権に反発して上杉氏に対して挙兵すると、これに介入した基氏に従って出陣し、芳賀勢と戦っている。
永和2:天授2年(1376)、常陸国河内郡に守源寺を建立。
至徳4(=嘉慶元):元中4年(1387)5月、小山若犬丸を匿っていた常陸国小田城の小田孝朝が挙兵し、鎌倉公方・足利氏満がこの鎮圧に乗り出した際、義宣自身は出陣せずに譜代家臣の小野崎通郷と江戸通高を出陣させた。義宣の母が小田一族の小田知貞(小田治久の叔父)の娘、義宣の姉が孝朝(小田治久の子)の妻という二重の縁戚関係にあったために出陣を避けたとみられる。
康応元:元中6年(1389)7月14日、鎌倉名越の邸で没した。享年44。法名は守源寺院殿海浦聖義大禅定門。