佐竹義重の嫡男。母は伊達晴宗の娘。幼名は徳寿丸。通称は次郎。右京大夫・侍従・左中将。
常陸国太田城に拠って北条・伊達氏に拮抗し、『鬼義重』と畏怖された父・義重から天正14年(1586)(17年とする説もある)に家督を譲られた。
同年4月、北条氏直の軍勢と下野国壬生で戦い、天正16年(1588)閏5月には弟で蘆名氏を継いでいた蘆名盛重(佐竹義広)を援けるために陸奥国須賀川に出陣し、伊達政宗勢と対峙した。
天正17年(1589)5月、伊達勢から再度の侵攻を受けた盛重を支援するために須賀川に出陣。この直後に起こった摺上原の合戦に際しては義重と共に伊達方の大平城を攻めていたため、救援に赴くことができなかった。
天正18年(1590)の小田原征伐のおりには、石田三成の勧めもあって5月末に羽柴秀吉のもとへ伺候し、豊臣政権に従属した。武蔵国鉢形城や忍城攻めなどに従軍し、北条氏が降伏したのちには、続いて行われる奥州征伐の宿所設営と会津先達を命ぜられた。
この小田原征伐参陣の功で同年7月末、常陸・下野国のうちで21万6千758貫文の所領を安堵する朱印状を得た。12月には上洛して従四位下・侍従に叙任。この間、父の義重は江戸重通を逐って水戸城を掌中に納め、ついで常陸国府中の大掾清幹を攻めて大掾一族を滅亡させ、天正19年(1591)2月には「南方三十三館主」と呼ばれた常陸国南域の国人領主33人のうち15人を謀略を用いて屠り、常陸国の支配体制を確立した。
この直後より本拠を水戸に移すことを決め、水戸城の拡張工事や城下町の建設に取り掛かった。また、同年の九戸政実の乱鎮定にも出陣している。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役には3千ほどの軍勢を率いて参陣、肥前国名護屋城に駐留していたが渡海することはなく、文禄2年(1593)閏9月に水戸に帰着。
文禄3年(1594)に太閤検地を実施。翌年6月に石高が確定し、義重・重臣・与力分・太閤蔵入地その他を合わせて54万5千8百石の朱印状を与えられ、全国で8位の石高を誇る大大名となった。
豊臣政権の重鎮であった前田利家が没した慶長4年(1599)閏3月3日に福島正則・加藤清正らが石田三成を討とうとした際、それまでの恩義に報いて三成の脱出を支援した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際し、はじめは徳川家康の興した会津上杉征伐に従って出陣していたが、親交の厚かった石田三成や上杉景勝から勧誘の書状が届くと去就を決めかね、結果的に旗幟を鮮明にできないままに参戦しなかった。このため戦後の論功行賞で罪に問われ、慶長7年(1602)7月に至って出羽国秋田へ20万石での左遷という沙汰が降ると同年9月に入部した。ただし、当時はまだ石高が決まっておらず、正式に確定したのは寛文4年(1664)4月のことであった。
はじめは秋田郡土崎の湊城に入ったが、慶長8年(1603)5月より久保田(窪田)城を築き、翌年8月末頃に一応の普請を終えて移った。
以後は徳川政権に恭順し、慶長12年(1607)の武蔵国江戸城修理、慶長19年(1614)の越後国高田城の普請などを務め、同年の大坂冬の陣にも参陣し、とくにこの戦役での最大の激戦といわれる今福での合戦で戦功を挙げている。
寛永10年(1633)1月25日、参勤中の江戸神田邸で病没した。疝気(せんき:下腹部の痛む病気)によるものという。64歳。法名は浄光院殿傑堂天英大居士。