石田三成(いしだ・みつなり) 1560〜1600

豊臣家臣。近江国坂田郡石田村の地侍・石田正継の子。通称は佐吉。初名は三也。従四位下・治部少輔。
佐吉と呼ばれていた14〜15歳のとき、奉公していた寺に羽柴秀吉が立ち寄ったところに茶を所望され、一杯目は温い茶を茶碗一杯に、二杯目は少し熱めの茶を控えめに、三杯目は熱いものを少量出したという話は有名。その才を秀吉に認められて小姓に召抱えられた。
軍事よりも秀吉側近、さらには吏僚としての事務的才能を買われて栄達の道を進み、天正13年(1585)に秀吉が関白に就任した際に従五位下・治部少輔に任ぜられた。この頃に近江国佐和山城主となったようである。
天正14年(1586)6月から16年(1588)末まで堺の奉行も兼ね、秀吉の奉行の筆頭と目されるまでに台頭した。天正15年(1587)の九州征伐には兵站の奉行を担当、島津氏との折衝にあたり、さらに博多の復興に尽力した。
天正18年(1590)の小田原征伐には上野国館林城・武蔵国忍城の攻撃に携わった。続く奥州平定にも各地を転戦し、奥羽諸大名の所領替えなどをも処理した。
慶長20年(=文禄元年:1592)より始まる文禄の役においては、未曽有の規模の外征という難事業に、船奉行として兵員の輸送にあたった。同年6月には増田長盛大谷吉継と共に軍監として渡海、碧蹄館の戦いなどで明軍と交戦したが、その過酷な戦況や環境を目の当たりにして講和論を支持、小西行長らと共に交渉を進めた。しかし交渉は不調に終わり、慶長2年(1597)、再び派兵が行われた(慶長の役)。
慶長3年(1598)7月に五大老・五奉行制が布かれて五奉行の筆頭格となった。
同年8月、秀吉が死去すると博多に赴いて、朝鮮からの将兵の撤退に尽力した。
三成の所領は、近江国水口城主を経て、文禄4年(1595)に与えられた近江国佐和山19万4千石にすぎなかったが、各地で豊臣氏直轄領の代官を兼ね、また長らく秀吉の申次役を勤めたことが三成の威勢を強めた。
三成は軍事面では顕著な功績はないが、吏僚として豊臣政権の中枢にあり、太閤検地の推進にも大きく関わった。
秀吉の晩年頃から水面下で三成ら「文治派」と「武断派」の対立があったが、朝鮮派兵における論功の見解の相違や、秀吉の死によって一挙に激化された。秀吉の死後は前田利家が重鎮として政権を後見していたために表面に出ることはなかったが、その利家も慶長4年(1599)に没したことにより、三成は武断派7人(福島正則加藤清正加藤嘉明池田輝政黒田長政浅野幸長細川忠興)と悶着を起こして襲撃を受けそうになった。三成はあえて徳川家康の保護を受けることで危難を逃れることができたが、佐和山城に引退することを余儀なくされた。
三成は、秀吉の死後に権勢を揮う家康を打倒する機会を窺っていたようであるが、慶長5年(1600)に家康が会津の上杉景勝征伐に東下したのを好機として家康打倒の檄を諸大名にとばし、毛利輝元を盟主に小早川秀秋宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継らを糾合、美濃国関ヶ原において西上してきた家康らの軍勢と激戦を展開した(関ヶ原の役)。しかし小早川秀秋の裏切りにより三成ら西軍は崩壊、大敗を喫した。
三成は逃走中に捕えられ、10月1日に六条河原で斬首された。41歳。法号は江東院正岫因公大禅定門。墓所は京都大徳寺三玄院。捕まったのちも全く悪びれるところがなかったという。
生真面目で潔癖、律儀で融通の利かない性格であったというが、私利私欲に走ることなく、ひたすらに豊臣家に忠節を尽くした。「人に仕える者は主人からの俸禄を全て使い果たさなければならない。使い残すなどということは、主人の禄を盗むも同然」という信念のもとに、財のほとんどを奉公のために投じたという。
戦場での槍働きが不得手であることを補うために、そして有能な家臣を召抱えることは即ち主君への奉仕につながるとして、勇将の誉れ高い島清興(左近)を破格の高禄で召抱えたことは有名である。そして自らは質素に暮らしたという。清興もこの三成の期待に応えるべく、関ヶ原の合戦では獅子奮迅の働きを見せている。
その反面、秀吉を至上として忠勤に励むあまりに諸人への態度が横柄と受け取られ、人望としての評判は芳しくなかった。これが武断派との対立を招いたともいわれている。秀吉の威光を笠に着ての傲慢・専横と受け取られても仕方のないような振る舞いがあったことも事実のようである。
三成の容貌は色白で痩せていて、目は大きく睫毛が長かったという。遺骨の鑑定結果から見ても線が細く、女性的な風貌であったといわれている。