上田長尾政景の二男。母は上杉謙信の姉で、謙信の甥にあたる。弘治元年(1555)11月27日に生まれ、幼名は卯松。通称は喜平次。長じて長尾顕景と名乗る。従三位・弾正小弼・参議・権中納言。妻は武田信玄の娘。
永禄7年(1564)に父の政景が没したのち、叔父・上杉謙信の養子となって母や姉妹と共に越後国春日山城に移り、天正3年(1575)に景勝の名乗りを与えられた。同年の『上杉家軍役帳』によると、軍役負担は375人。
天正6年(1578)3月に謙信が没すると上杉景虎と家督相続をめぐって戦い(御館の乱)、武田勝頼と盟約を結んで景虎を破り、謙信の跡目を相続して越後国春日山城主となる。天正8年(1580)8月頃までには御館の乱を通じて上・中越の諸豪族をその支配下に置き、全幅の信頼を寄せる重臣・直江兼続を家宰として重く用い、共に支配体制を確立した。
天正9年(1581)頃より織田信長との関係が険悪になり、北陸地方において激突。天正10年(1582)6月に越中国の魚津城を落とされたことで領国を敵対勢力に包囲されるという危機に陥ったが、時を同じくして起こった本能寺の変で信長が斃れたことを受けて織田方が兵を退いたので危機を免れた。この直後より信濃国経略に進出し、7月には海津城や川中島4郡を制圧している。
この後の北陸地方の情勢において羽柴秀吉と柴田勝家の対立が顕著になると秀吉と結び、越中国への出陣を条件として能登・越中国の領有が約されたが、信濃国の上杉領を窺う徳川家康や反乱を起こしていた新発田重家などへの対処に追われたため、越中出兵はできなかった。しかしその間にも秀吉は北陸平定を進めており、天正11年(1583)4月に勝家を滅ぼして威勢を増大させた秀吉の風下に立つことなった。
天正14年(1586)6月に上洛して羽柴秀吉に臣従、参内して正四位上・左近衛権少将に叙せられた。
天正15年(1587)10月には新発田重家の乱を鎮定して越後国を統一した。
天正16年(1588)5月にも上洛し、従三位・参議兼中将に叙任。この際、秀吉より豊臣姓を名乗ることを許され、京都に屋敷を与えられるとともに在京中の賄料として近江国内に1万石の所領を与えられている。
天正17年(1589)7月、本間氏を討ち従えて佐渡国を平定した。
天正18年(1590)の小田原征伐に出陣、前田利家らと共に編成した軍団で4月には上野国松井田城、6月に武蔵国の鉢形城や八王子城を攻略した。
この後の奥州仕置きにおいて、所領が越後国7郡(頸城・魚沼・刈羽・古志・三島・蒲原・岩船)45万石、信濃国で川中島4郡(埴科・更級・高井・水内)18万石、佐渡国で3郡(羽茂・雑太・加茂)14万石、出羽国で庄内3郡(田川・櫛引・遊佐)14万石、計91万石に確定している。
天正19年(1589)7月、九戸政実の乱鎮圧に出陣。戦闘に参加したという記録がなく、予備軍あるいは後方支援として陸奥国柏山に駐留していたとみられる。
文禄の役にも5千の兵を率いて参陣、文禄2年(1593)6月から8月には渡海して熊川城の普請にあたっている。
文禄3年(1594)10月、権中納言に任じられる。
慶長3年(1598)には五大老の一人に抜擢され、国替えの沙汰を受けて陸奥国会津で92万石に従前の佐渡国3郡、出羽国の庄内3郡と合わせて120万石を領する大大名となった。
慶長5年(1600)3月頃より新城として神指城の建設を始め、これを知った徳川家康に「謀叛の疑いあり」との理由をつけられて侵攻を受けそうになるが、敢然と受けて立つ姿勢を崩すことはなかった(会津上杉征伐)。そこへ石田三成らが近畿地方において挙兵したために徳川勢の侵攻を免れるが、家康に与した最上義光の軍勢と戦った(出羽合戦)。
この奥羽の戦線では上杉方が優勢だったが、主戦場の関ヶ原の合戦で西軍が敗戦したため、12月に家康に降伏。結果、翌慶長6年(1601)年8月に米沢30万石に移封された。
慶長年間末期の大坂冬・夏の陣には徳川方として戦い、とくに冬の陣における今福・鴫野の戦いでは奮戦して功があった。その後も徳川幕府に恭順する一大名として忠勤に励み、家を保った。
元和9年(1623)3月20日、米沢で没した。69歳。法名は覚上院殿空山宗心大居士。
内政においては領内法制の整備や、米沢城下町の建設に努めて支配の基礎を確立した。
性格は寡黙で剛直、律気で果断だったという。家臣に温顔や笑顔を見せることなく、家臣たちは敵よりも景勝を恐れたという。
真偽のほどは定かではないが、以下のような逸話が伝わる。景勝は1匹の猿を飼っていたが、あるときこの猿が景勝の頭巾を頭に乗せ、景勝の座所に座り、手指を組み合わせたり意味ありげに頷いたりして、さながら家臣を指図するような素振りをしていた。おそらくは景勝の真似をしていたのだろうが、これを見て景勝も思わず笑ってしまったが、これが景勝が近臣に見せた生涯唯一の笑顔だったという。
軍紀の厳しさや浸透ぶりも著名であった。大坂冬の陣に参陣した上杉勢は大坂鴨野口に布陣したが、そこへたまたま丹羽長重が訪ねたとき、景勝は床机に腰を据えて大坂城をはったと睨みつけ、身には甲冑もつけずに青竹を杖にしていた。その左右には将兵3百余が槍を閃かせて横たえ、片膝立ててこれも前方を見据えていた。陣中で無駄口を叩く者もおらず、緊迫した空気が漂っていたという。
京都府京都市伏見区に「景勝町」という地名が残るが、その由来はかつてここに景勝の伏見(京都)屋敷があったことに始まるとされる。