文禄(ぶんろく)の役

羽柴秀吉が「日本を統一した暁には朝鮮を案内役にして大陸(=中国、当時は明国)にまで攻め入ろう」という意思を表明したのは、まだ四国も九州も統一していない段階の天正13年(1585)のことであった。
天正15年(1587)の九州征伐の際、対馬の宗義智が服属を申し入れてきた。秀吉はその帰順を受け入れる条件として、朝鮮国王から人質を取り、朝鮮国王が秀吉に随身するように交渉するように命じたのである。
これは、中国大陸に侵攻するにあたって、朝鮮半島をその経路として考えていたためである。秀吉に従えば大陸侵攻の先鋒として、従わなければ武力で屈服させて押し通る目論見であった。
対馬の宗氏は、いわば朝鮮国との仲介貿易の窓口であった。かつて倭寇禁圧に功があり、その褒賞として朝鮮国王から貿易の独占権を認められていたのである。特別な例外を除いては、宗氏の認可がなくては朝鮮国との交易は不可能であった。
朝鮮通である義智は、これが不可能であることを知っていた。しかし秀吉の厳命に服さないわけにもいかず、とにかく朝鮮王朝に通信使(外交官)の派遣を要請するも、これは退けられた。しかし義智自ら漢城に乗り込んで訴えるなど、必死の奔走によって朝鮮王朝の通信使は天正18年(1590)7月下旬、京都に到着したのである。
その頃の秀吉は既に四国・九州の平定を終え、小田原征伐の陣中である。北条氏を降して関東を掌握、そのまま奥州諸国の仕置きを命じて凱旋したのは9月になってからである。秀吉はこの朝鮮の通信使との会見を内裏で、と望んでいたようだが、朝廷がこれに同意しなかったことなどもあり、秀吉と通信使の会見が行われたのは11月7日になってからのことだった。
このとき通信使によって呈された国書の内容は、秀吉の天下(日本国内)の統一を祝賀することと、友好を厚くしよう、というものだったという。秀吉の望む、恭順の意を示すものではなかったのである。
交渉は決裂した。そしてこの会見から4ヶ月のちの天正19年(1591)1月、秀吉の弟である羽柴秀長が没した。この秀長は、秀吉の創業期よりの補佐役であり、豊臣政権内でも大きな影響力を持っていた人物である。権力を握った秀吉を諫止しうる最初で最後の人物であったといってよい。その秀長が没したことで、朝鮮出兵への動きはますます加速することになったのである。
事実、秀吉が諸将に朝鮮出兵を議するのは、その2ヵ月後のことである。

一方の朝鮮通信使たちであるが、朝鮮に帰国後、日本国内における情勢を報告した。日本の情勢を偵察してくるという使命も兼ねていたのである。このとき正使は「日本軍が侵略してくることは濃厚である」旨を伝えたが、副使はまったく逆に「そのような兆候はない」と述べた。これを受けて朝鮮王朝では御前会議が開かれたが、結局は「日本軍の侵攻はない」と判断された。この決議には王朝内の派閥争いが絡んでいたと見られている。
が、一応は朝鮮南部の沿岸地域の防備を増強することが決定された。

秀吉はこの年より「唐入り」のための根拠地として肥前国に名護屋城の築城工事をはじめた。この築城を担当したのは築城の名人と称される加藤清正で、10月10日に着工されて12月半ばに一応の完成をしたという、驚くべき速さである。また、山内一豊らに命じて軍艦の建造を急がせていた。そして天正20年(=文禄元年:1592)、具体的に大陸侵攻を開始するに至るのである。
1月5日、秀吉は九州・四国・中国地方の諸大名に出陣命令を下した。9軍に編成された日本軍は3月の初め頃、諸国から名護屋を経由して次々に朝鮮半島へと渡っていった。その編成は、第1軍が宗義智・小西行長松浦鎮信有馬晴信・大村喜前・五嶋純玄で1万8千7百人、第2軍が加藤清正・鍋島直茂相良頼房の2万2千8百人、第3軍が黒田長政大友義統で1万1千人、第4軍が毛利吉成・島津義弘・高橋元種・秋月種長・伊東祐兵島津豊久で1万4千人、第5軍が福島正則・戸田勝隆・長宗我部元親蜂須賀家政生駒親正・来島通之と来島通総で2万5千1百人、第6軍が小早川隆景小早川秀包立花宗茂・高橋直次・筑紫広門で1万5千7百人、第7軍が毛利輝元で3万人、第8軍が宇喜多秀家で1万人、第9軍が羽柴秀勝細川忠興で1万1千5百人、合計では15万8千8百人の大軍であった。その他に、渡海はしないが名護屋城に後詰として駐屯する徳川家康など関東・奥羽諸国の兵員が10万1千4百人、水軍が9千5百人、総計では27万人にも及ぶ動員で取り組まれることになったのである。

4月12日、小西・宗らの第1軍が兵船7百余艘で対馬大浦を発し、朝鮮の釜山浦に入った。翌13日には上陸、釜山城を守っていた鄭撥をわずか3時間の戦闘で討って城を落としている。以後、次々に上陸した秀吉軍は3つの道に分かれて国都・漢城に向かう。日本軍は圧倒的な戦力で無人の野を行くが如く進軍し、5月3日には第1軍・第2軍が漢城を占領した。
日本軍は軍勢も多く、装備面でも勝っていたことがこの快進撃の要因であった。当時の朝鮮軍の主力部隊は騎馬隊であったが、日本軍は射程に勝る鉄砲隊を擁し、これを大いに打ち破った。また白兵戦における日本刀の切れ味は鋭く、この主力兵器の前に朝鮮軍はことごとく壊滅させられたのである。さらに付け加えるなら、日本はつい先頃まで争乱の時代であった。渡海した軍勢はその中を生き抜いてきた、戦闘経験の豊富な精鋭集団であったということも一因であろう。
このような破竹の進撃の中にあっても、小西行長は講和の道を探っていた。行長の出自は商人であり、海外貿易においても利を上げていた。もとより海外侵攻には反対であったし、和平が保たれて貿易が再開すれば、実利も上がるのである。
行長は講和の会談の用意があることを朝鮮王朝に伝えようとするが、使者が捕えられたりするなどしたため、ついに和平交渉もないままに漢城が陥落するに至ったのである。
漢城陥落に先立つ4月30日、朝鮮国王は避難のために漢城を離れた。目的地は平壌である。この後、漢城市内の下層民らが略奪・放火などの狼藉に及んだ。これにより朝鮮李王朝200年に蓄積されてきた歴代の財宝や書籍、貴重な歴史記録などが灰燼に帰したという。
漢城を占領したのち、小西行長は国王をさらに追って平壌へと向かい、加藤清正は咸鏡道(ハムギョンド)方面へと進軍。
秀吉はそうした緒戦の快進撃に気をよくし、5月26日付で関白・秀次に朱印状を与え、その中で大陸占領後の計画を発表している。その内容は、後陽成天皇を北京に迎え、豊臣秀次を明国の関白とし、日本の関白には羽柴秀保や宇喜多秀家をおきたい、とするものであった。事実、占領後の地域では急速な日本化が進められ、増田長盛などは朝鮮の人々の姓名を強制的に日本名に改めさせたり髪型を日本風にさせたり、(安国寺)恵瓊は朝鮮の子供たちに「いろは」を教え込んだりしていたという。
小西行長は平壌に到達する直前、再度講和を試みた。日本側は「道を避け、遼東(明国)に向かう道を開けるように」と主張したが、朝鮮側は「明は朝鮮にとって父母にも等しい国。日本に従うわけにはいかない」と徹底抗戦を主張、講和は不首尾に終わった。
この交渉ののちに朝鮮国王は明の遼東に接する義州へと落ちて行き、小西隊の進撃によって6月15日に平壌も陥落したのである。
咸鏡道に侵攻した加藤清正は海岸伝いに北上し、会寧で2人の王子を捕えることに成功した。

しかし、占領地における統治は芳しくなかった。何しろ、言葉が通じないのである。通訳や言葉の通じる者もいるが、数が足りないのである。そのような状況のままで進軍を続けたために、占領した土地も拠点として充分に機能しない。兵站線が延びていくばかりである。占領地の住民は日本兵を恐れ、集落を離れたり山の中に隠れたりした。それを慰撫しようにも言葉が通じないのである。住民はゲリラ的な活動を始め、日本軍は武力でそれを鎮圧しようとする。対立は深まる一方である。このような状況であったために占領地では農耕が行われず、食糧欠乏の危機が迫っていた。そうなると日本軍の兵士にも略奪を行う者も増加し、集落は荒れ果てる一方だったのである。
日本軍は陸路で進撃する軍勢の補給線を確保するため、制海権の掌握にも乗り出していた。日本軍の水軍を率いるのは九鬼嘉隆脇坂安治加藤嘉明藤堂高虎らである。緒戦の巨済島近辺の多島海での海戦では日本軍が優勢であったが、5月になって朝鮮全羅道水軍の李舜臣が指揮を執るようになると戦況は一変する。朝鮮水軍の軍船は大きく堅固で、火力で勝っていたのである。小銃では日本の方が優れていたが、大砲類は朝鮮側の方が優れていたという。日本水軍は、この大砲によってことごとく沈められていったのである。さらに7月9日の閑山島沖の海戦において、日本水軍七十余艘の軍船が朝鮮水軍六十余艘によって59艘を失うという大敗を喫し、その結果、海峡の制海権を奪われたために補給線確保すらできないという状況になったのである。

5月の漢城陥落の報は、その半月後には明国の北京にまで届いていた。明の朝廷では、日本の進撃があまりにも早かったために、朝鮮が日本に協力しているのでは、と疑う声もあったようだが、とにかく5千ほどの軍勢を派遣して朝鮮の救援に向かわせることにした。6月下旬に遼東を発向した明の軍勢は7月19日より平壌に駐留する日本軍に対して攻撃を開始した。戦況は日本軍が優勢であったようである。8月になると講和交渉が持ち上がり、その間は一時休戦ということになった。
11月に至り、明国皇帝よりの回答がもたらされた。その内容は「占領した土地や城、捕えた2人の王子を解放して撤兵せよ」とのことだった。同時に明国より新たに軍勢が派遣され、ここに明も日本との戦いに参戦することになったのである。
これにより戦線はますます泥沼化、各占領地においては義兵と呼ばれる朝鮮民衆の激しい抵抗にあい、戦いの苦しさは増す一方だった。
翌文禄2年(1593)1月7日、明の李如松を総司令官とする大軍が平壌を包囲した。明軍は4万の兵を擁し、大砲をもって激しく攻め立てる。それにひきかえ、平壌を守る小西隊は1万である。必死に抵抗するが打ち破られ、平壌を捨て、漢城へ向けて凍てついた大同江を渡って敗走した。
季節は1月、真冬である。朝鮮の冬は、日本のそれよりもはるかに厳しい。食糧難に加えておりからの寒気によって凍傷にかかる者も多く、鉄砲隊も用を成さなかったといわれる。しかも日本軍は草鞋を履いていたため、凍傷によって足の指が落ちる者があとを絶たなかったという。漢城にたどり着く前に命を落とす者も多かった。

明軍のさらなる南下を喰いとめるべく小早川隆景が漢城北方の碧蹄館に布陣、26日には明軍を打ち破った。有名な「碧蹄館の戦い」である。
これ以後は明軍も積極的に攻めて来ることもなくなり、戦線は膠着した。

3月、戦況視察のために石田三成・増田長盛・大谷吉継が漢城に到着した。このときの漢城の状況は予想以上に深刻であった。はじめ石田らは督戦するつもりであったが、悲惨ともいえる状況を目の当たりにし、直ちに撤退に向けての協議を考え始めたという。
その後、本格的に和平交渉が行われることとなり、4月中頃、日本軍は漢城から釜山を中心とした南部方面に撤兵した。これと併せて明国の講和使節と石田らが肥前国名護屋の本営に向かう。
5月15日、明国の使節が名護屋に到着し、23日には秀吉と会見、具体的な講和交渉に入った。28日に秀吉は和議の条件として、明国の皇女を日本の天皇の后とする、勘合貿易を復活させる、朝鮮の王子と大臣を人質とする、朝鮮南部の4道を日本のものとする、などの7ヶ条を明国使節に示したのである。
明国使節は6月下旬には名護屋を離れていった。秀吉の示した講和条件は、現地遠征軍の苦労や苦戦を知らず、全く強硬なものであった。そして明国・朝鮮側にとってもとうてい承諾できる内容のものではない。明国側は既に日本軍を朝鮮南部に追い込んでいるという背景から強気であったが、その一方で強引に攻め込めば退路のない日本軍の必死の反撃を受けることを憂慮し、交渉は決裂させずに継続することにした。

明国使節が帰国のために日本から朝鮮に渡ってくると、小西行長は家臣の内藤如安を明国講和使節と同道させて漢城に派遣した。
7月8日に漢城に到着した如安は、明軍の総司令との会見において「朝鮮を通って明国に朝貢しようとした」と弁明したが、とてもそんな弁明が通じる状況ではなかったという。
8月末に漢城を発した如安はさらに北京を目指したが、今度は遼東において「講和をまとめるには秀吉の降伏文書が必要である」と留め置かれた。これを受けた行長は明の外交官と協議の末、偽の降伏文書を作り、それを明国朝廷に送ることにしたのである。石田三成ら軍監も、これを認めた。その背景には、とにもかくにも講和して撤兵させなければならない、という思いがあったのだ。再び明国が猛攻を加えれば日本軍は壊滅しかねない状況なのである。

一方の秀吉は偽装文書が提出されることなどは知らず、自分の要求が受け入れられるものと思い込んでいた。そこで明・朝鮮に圧力をかけることと朝鮮南側4道割譲の既成事実を作るため、慶尚道の晋州城を攻めさせていた。講和使節が朝鮮入りする頃のことである。厭戦気分の高まっていた明軍は傍観に終始、日本軍の猛攻により1週間ほどで城は陥落、将兵・民衆あわせて6万余が虐殺されたという。この晋州は義民兵の拠点でもあり、それを憎んだ秀吉の厳命によって根絶やしにされたのである。
内藤如安が漢城や遼東で足止めされたのは、そうした日本軍の攻勢姿勢を踏まえていたこともあるだろう。小西行長らが推し進める「講和」と現地での「戦闘」状態のつじつまをあわせるためには、秀吉が降伏する形をとるしかなかったのである。
そののち、日本軍は撤退を開始した。海戦における大敗で多くの船を失っていたため、船便の手配も事欠き、乗船の順番を籤引きで決めるありさまだったという。

こうして、第1次朝鮮出兵、すなわち文禄の役は、小西行長らの講和交渉にすべてを委ねるかたちで自然休戦となったのである。日本軍が撤兵を開始したとはいっても、完全に引きあげたわけではなく、朝鮮半島に残る将士もあった。
偽の降伏文書を携えた明国の講和使節が再び動き出したのが文禄3年(1594)1月下旬、さまざまな紆余曲折や協議の末に如安が北京に入ることを許されたのが、その年も押し詰まった12月になってからのことだった。
またこの年、朝鮮在陣中の諸大名らはさかんに虎狩りを行っており、朝鮮各地に城(倭城と呼ばれている)を築いたりしているのである。

結局、この文禄の役と呼ばれる海外侵攻において、得るものはなかったというべきであろう。朝鮮に渡った日本軍15万余のうち5万人ほどが死亡したといわれている。またそれ以上に、戦場となった朝鮮においては兵士のみならず民衆にまで多大の犠牲者を出し、国土は荒廃した。これが秀吉の想い描いた「夢」の結果である。もはや「夢」などという次元ではなく「誇大妄想」といわざるを得ない。