小早川秀包(こばやかわ・ひでかね) 1567〜1601

毛利元就の九男。母は乃美弘平の娘。幼名は才菊丸。通称は藤四郎。初名は元総。市正。
元亀2年(1571)5月に備後国の大田氏が断絶したため、その家臣から請われて入嗣したが、のちに後嗣のなかった兄・小早川隆景の養子となる。
天正10年(1582)の備中国高松城の戦いにおいて羽柴秀吉との講和に際し、隆景の養子である元総と吉川広家、福原元俊の3人が人質となり、同年9月に大坂に送られた。広家と元俊はすぐに帰国を許されたが元総は残されて秀吉に寵愛され、同年12月に秀吉から一字を与えられて秀包と改名。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦にも従軍しており、凱旋後に秀吉の養女(大友宗麟の娘)を娶り、天正13年(1585)2月に帰国した。
天正15年(1587)の九州征伐後の国分けに際し、隆景に与えられた筑後国のうちから3郡が秀包に分与された。同年の肥後国一揆では隆景軍の先鋒として出動、これを鎮定している。
文禄の役にも出陣し、とくに文禄3年(1593)の碧締館の戦いでは隆景を助けて明国の大軍を破る活躍をした。
この頃、養父となっていた隆景が秀吉の外甥・秀俊を養子に迎えるにあたって秀包は分家を立てることとなり、毛利姓に復した。この系統が吉敷毛利氏となる。一方で小早川氏に入嗣した秀俊は、のちに小早川秀秋と名乗る。
久留米に分家を立てた秀包は、慶長5年(1600)の関ヶ原の役で西軍に属したため、筑後国の所領を没収されたが、戦後に毛利氏当主の輝元は秀包の子・元鎮に7千石を与え、家臣として取り立てている。
慶長6年(1601)3月26日、長門国赤間関にて没した。35歳。法名は玄済道叱。
小早川氏を継承した秀秋も慶長7年(1602)に没したため小早川氏は無嗣子断絶となり、その名跡は消滅した。