毛利元就(もうり・もとなり) 1497〜1571

安芸国の戦国大名。明応6年(1497)3月14日、安芸国高田郡吉田庄地頭・毛利弘元の二男として生まれる。母は福原広俊の娘。幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。従四位上・治部少輔・右馬頭・陸奥守。
幼少の頃は隠退した父・弘元とともに高田郡多治比猿掛城に住んでいたが、5歳で母に、10歳で父に死別。その後は弘元の側室・大方殿に養育され、永正8年(1511)に15歳で元服して多治比元就と称す。
安芸国毛利氏の惣領となっていた兄・興元が永正13年(1516)8月に病死すると、家督は興元の遺児で2歳の幸松丸が継承したが、その幸松丸もまた大永3年(1523)7月に9歳で夭折したために家督相続の内訌が生じた。家中には急激に勢力を伸張させていた出雲国の尼子氏より子息を迎えて当主に据えようとする一派もあったが、毛利氏重臣・志道広良ら15人の連書状による要請を受けて8月10日、元就が宗家を継いで郡山城主となった。しかし大永4年(1524)、元就を排して元就の異母弟・相合元綱を擁立しようとする一派の陰謀が露見したため、元綱やこれに加担した坂広秀・渡辺勝らを誅伐している。
この頃の毛利氏は近隣の小勢力を従えてはいたが国人領主の域を脱しておらず、大永2年(1522)後期頃より尼子経久の影響下にあったが、元就の家督相続を機に尼子氏から距離を置くようになり、大永5年(1525)3月には尼子経久と敵対関係にあった周防国の大内義興に与す。
享禄4年(1531)7月には経久の孫・尼子晴久と兄弟の契りを結んでいるが、これは大内氏が北九州で少弐氏と抗争に及んでいる間に尼子氏の鋭鋒をかわすための一時的な方便とみられ、天文6年(1537)12月には大内義興の後継・大内義隆に嫡子である隆元を人質に出し、再びその麾下に属す姿勢を明確にした。この間の天文2年(1533)頃には近隣の熊谷氏や宍戸氏を味方につけ、勢力の扶植を図っている。
このため、天文9年(1540)9月より尼子晴久率いる3万の軍勢に郡山城を攻囲されるが、翌年1月に大内氏重臣・陶晴賢の援軍を得て破り、武名を轟かせた(郡山城の戦い)。この尼子勢の撤退にともない、同年5月には尼子方となっていた安芸国佐東銀山城を返す刀で攻め落とし、有力国人領主であった武田氏を滅ぼしている(佐東銀山城の戦い:その2)。
天文11年(1542)より大内氏が出雲国への侵攻を開始するとこれに従軍したが、尼子氏の本拠である出雲国月山富田城を攻めきれずに撤退する際には殿軍を務めた(月山富田城の戦い)。この敗戦以後には大内義隆自身による軍事行動は見られなくなるが、代わって元就が安芸・備後国の経略を推進することとなる。
この頃より家中の統制強化を図り、天文15年(1546)6月頃に家督を隆元に譲る。隆元は当時24歳であり、周囲は未だ予断を許せぬ情勢ではあったが、自身や重臣・志道広良が後見することによって当主としての成長を促したものと見られ、実際には元就が実権を握り続けていた。これと並行して、毛利氏の基盤を強固にするために天文13年(1544)11月に三男の隆景を瀬戸内海沿岸の豪族・竹原小早川氏に、天文18年(1549)二男の元春を山陰との国境に盤踞する吉川氏に養子として送り込んだ。のち、この両家は実質的に毛利氏の分家と化し、『毛利の両川』として毛利宗家の両翼を担うこととなる。
天文19年(1550)の2月から5月には元春・隆景を伴って周防国山口に大内氏を訪問して親交を深めているが、この逗留中に陶晴賢が大内義隆に対して謀叛を企てていることを察した。帰国後の7月には予てから専横の振る舞いが目立っていた井上一族の三十余名を粛清、9月には元春の義父で吉川氏の前当主・吉川興経を殺害して吉川氏の実権を取り込み、10月頃には隆景を小早川氏の嫡流である沼田小早川氏の養嗣子に強制的に据えるなどとする強引な手法で基盤を固めているが、これは大内氏転覆後の毛利氏の行く末に備えたものと見られる。
天文20年(1551)8月末に陶晴賢が大内義隆を討って大内義長を擁立したのちも大内氏(実質的には陶晴賢)との協力体制を維持しつつ近隣領主との関係を深め、戦国大名・毛利氏としての地歩を着実に固めていくが、元就の威勢が増大するにつれて晴賢との反目が深まり、天文23年(1554)5月には大内氏と断交して自立する道を選ぶ。
この訣別によって大内氏・尼子氏という中国地方の2大勢力と敵対することになるが、天文24年(=弘治元年:1555)10月に陶晴賢を厳島の合戦で討ち取り、弘治3年(1557)4月には大内義長を滅ぼしてその所領を併呑して安芸・備後・周防・長門の4ヶ国を領有、石見国や九州の豊前国にも勢力を伸ばした。
一方の尼子氏との抗争においては、天文23年11月に謀略を用いて尼子軍の主力部隊の新宮党を壊滅させて弱体化を図り、永禄5年(1562)6月頃には石見国における尼子勢力を駆逐あるいは従属させ、同年7月より出雲国への侵攻を開始。以後は持久戦法を採りつつ海陸両面より月山富田城を圧迫し、永禄9年(1566)11月に尼子氏当主・尼子義久の降伏を容れて降した(月山富田城の戦い:その2)。しかし、この間の永禄6年(1563)8月には嫡男の隆元に先立たれている。
また、永禄4年(1561)頃より断続的にではあるが数度に亘って北九州において大友宗麟とも交戦したが、永禄12年(1569)には出雲国における尼子残党や周防国での大内輝弘の蜂起など、後方撹乱策によって撤退を余儀なくされた。
元亀2年(1571)6月14日、郡山城に卒す。享年75。その生涯において二百数十回の合戦を戦い抜き、九男二女の子をもうけた。法名は日頼洞春大居士。墓所は広島県高田郡吉田町の旧大通院境内。
元就の逸話としては、子の隆元(または孫の輝元)・元春・隆景の3人を集めてそれぞれ1本ずつの矢を折らせたのち、3本の矢を束ねて折らせようとしたところが誰も折れなかったことを例えとして、兄弟や一族の結束の重要さを諭したという『三矢の教え』が著名であるが、これは史実ではなく、兄弟が心を合わせて毛利宗家を永続させることが肝要、と説いた弘治3年11月25日付の教訓状を踏まえて創作されたものとされている。