尼子義久(あまご・よしひさ) 1540?〜1610

出雲国の戦国大名。尼子晴久の嫡男。母は尼子国久の女。幼名は長童子。通称は三郎四郎。右衛門督。出雲国月山富田城主。
尼子氏は父祖の時代より安芸国の毛利氏と敵対関係にあり、この両氏の講和を望む将軍・足利義輝から和平使節として派遣された聖護院門跡・道増(義輝の叔父にあたる)を永禄2年(1559)10月頃に迎えてのちも依然として対立が続いていたが、永禄3年(1560)12月に強硬派であった父・晴久が死没して義久が尼子氏当主となると、和平を望むようになる。
この毛利氏との和睦は永禄4年(1561)暮れ頃には成立するが、この後に尼子氏麾下の福屋隆兼本城常光・赤穴(駿河守)久清らを降した毛利元就が永禄5年(1562)6月に破談を申し入れたため、抗争が再燃する。
しかし尼子氏に昔日の威勢はなく、同年7月より毛利勢の出雲国侵攻によって圧迫を受ける。永禄6年(1563)10月には防衛線の要である白鹿城を落とされ(白鹿城の戦い)、その翌月には弓ヶ浜の合戦に敗れて伯耆国からの糧道を断たれたため、徐々に月山富田城へ押し込められることとなった。
永禄8年(1565)4月17日には毛利勢の総攻撃を辛くも凌いでいるが、その後も後詰のない籠城戦を強いられ、翌永禄9年(1566)11月21日に至って降伏を申し入れ、同月28日に開城した(月山富田城の戦い:その2)。これに際し、弟の倫久・秀久と共に元就の意向によって助命された。
下城後は安芸国高田郡長田の円明寺に幽閉され、天正17年(1589)には毛利氏から安芸国志道に居館を与えられる。
嗣子がなかったために倫久の子・九一郎(のちの久佐元知)を養子とし、慶長元年(1596)に仏門に入り、長門国阿武郡嘉年(かね)の五穀禅寺で剃髪して友林と号す。
慶長15年(1610)8月28日、同郡奈古で死去した。71歳か。法名は大覚寺殿大円心覚大居士。