弘治3年(1557)4月に大内義長を滅ぼし、中国地方に大きく勢力を伸ばした安芸国の毛利元就は宿敵・尼子氏との決戦を企図し、永禄5年(1562)7月より石見国を経て出雲国に侵攻し、宍道湖南岸の来待にまで軍勢を進めた。しかし同年9月、尼子氏に呼応した豊後国の大友宗麟が豊前国の毛利領に侵攻する動きを見せたため、元就は同道していた嫡男・毛利隆元を派遣してこれに対処させる一方、12月には本陣を宍道湖東北岸の洗合(洗骸・荒隈)に据えて、持久戦の態勢を調えた。
この洗合は尼子氏の本城・出雲国月山富田城と尼子十旗の筆頭・白鹿城との連絡を扼す地である。この白鹿城を抜けば海路を経ての伯耆・因幡国方面からの支援を断つことが期待でき、月山富田城を攻めるためには白鹿城を陥落させることが必須であった。そのため、毛利勢は宍道湖と中海の中間に位置する和久羅山(羽倉山)に支城を築いて制海権を握り、白鹿城と月山富田城の分断を図ったのである。
翌永禄6年(1563)に件の九州戦線が落着したことにより、元就は隆元の帰着を期して白鹿城攻めにあたることとした。しかし合流の途次にあった隆元が8月4日に急死する。この思わぬ訃報に悲嘆する毛利陣営であったが、元就は「隆元への追善は尼子氏の撃滅の他になし」と将兵を諭し、8月13日より白鹿城攻めに臨んだのである。
白鹿城は城主・松田誠保以下1千の兵と牛尾久清率いる援兵8百が守っていたが、毛利勢は1万5千の兵力で第1回目の総攻撃を仕掛け、その日のうちに二ノ城(小白鹿城)を落とし、その周囲を平定した。しかし本城は尼子十旗の筆頭といわれるように守りが堅く、容易に落ちなかったため、元就は石見国から大森銀山の鉱夫数百人を呼び寄せ、麓から城内に向けて坑道を掘って本丸に近づこうとした。これを知った誠保は城内から同じく坑道を掘ったが、偶然にも両者の坑道が出会ったため、9月11日に坑道内での戦闘が行われたという。この戦闘は毛利勢の勝利となったが、坑道は白鹿城兵によって封鎖されたため、使用できなくなった。
城主の松田誠保は籠城する一方で月山富田城の尼子義久に救援を要請しており、これを受けた尼子勢は援兵を派遣し、8月19日には城麓の船本で、28日には宍道中蔵で合戦があった。また、9月23日には義久の弟・尼子倫久を大将として亀井秀綱以下1万余を白鹿城の後詰に送り、この軍勢は和久羅付近にまで進出したが毛利両川の軍勢によって撃退され、救援を果たすことはできなかった。
これにより籠城兵の士気が喪失したところへ毛利勢は総攻撃を加えて10月13日に小高丸を落とし、水の手を遮断した。このため兵糧だけでなく水までもが欠乏したことから10月29日、誠保はついに開城降伏して城から下った。