豊後・筑前・肥後の守護を兼ねた大友義鑑の嫡子。幼名は塩法師丸、通称は五郎、のちに新太郎。実名は義鎮。永禄5年(1562)5月頃、薙髪して瑞峰宗麟と号す。この瑞峰とは、自身が京都大徳寺内に建立した塔頭「瑞峰院」に由来するものである。他に休庵・宗滴・円斎・玄斎・三玄斎・三非斎とも。また、キリスト教に深く帰依して洗礼名をドン=フランシスコといい、当て字で「府蘭」とも号した。
天文19年(1550)2月の二階崩れの変を鎮定して大友宗家を相続、第21代の当主となった。
天文20年(1551)の陶晴賢による大内義隆の殺害、翌年に宗麟の実弟・晴英(義長)が大内氏当主に就いたことを機に、旧大内領であった豊前・筑前国の実効支配に乗り出す。
当時は粗暴かつ好色で、天文22年(1553)には美貌で聞こえた家臣の妻女を無理矢理に奪って妾とし、このため服部右京助はじめ一万田鑑相や宗像鑑久らの重臣が反乱を起こしている。また天文23年(1554)11月には肥後守護の菊池義武を、豊後国を狙ったという理由から直入郡木原に誘き寄せて討ち取らせている。この義武は父・義鑑の弟、すなわち宗麟には叔父にあたるが、この叔父の首実検に際して鞭をふるってその首を打ち据えたという。
弘治3年(1557)7月、毛利氏に通じて叛旗を翻した筑前国古処山城主・秋月文種を討つ。
永禄2年(1559)6月、将軍・足利義輝から豊前・筑前国の守護に、翌年3月には左衛門督に任じられた。
永禄6年(1563)、豊後国海部郡臼杵に丹生島城を築城、ここを居城として政務を執った。
永禄4年(1561)頃からは「大内遺領の継承」を主張する毛利元就と豊前国で抗争し、毛利氏に呼応して秋月種実・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種らの国人領主が離反したため苦戦を強いられたが、永禄7年(1564)7月には将軍・義輝の命で和睦して旧領を復した。
その後に肥前国を制圧したが、永禄10年(1567)に毛利氏に通じた筑前国三笠郡の高橋鑑種、永禄11年(1568)には立花城主の立花鑑戴らが反乱を起こし、反乱軍の後詰のために来援した毛利勢と12年(1569)に激しい攻防戦(立花城の戦い)を繰り広げるが、大内輝弘に毛利勢の背後を衝かせるという策略でこれを見事に退けた。
元亀2年(1571)、足利将軍より九州探題職に任じられ、名実共に豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の6ヶ国を支配する太守となった。
天正4年(1576)頃に嫡子の義統に家督を譲り、領内は府内の義統、臼杵の宗麟との二頭政治体制となった。
天正5年(1577)、日向国の伊東義祐が豊後国に亡命してきたことを契機として日向国への侵攻を企図し、翌天正6年(1578)4月には日向国松尾城主・土持親成を討った。
同年8月の日向国出兵において、土持氏と結んでいた島津義久と戦うことになるが、このとき務志賀(無鹿・むしか)に本営を置いた。宗麟はこの地にキリシタン王国建設を思い立ったといい、軍事指揮は田原親賢に任せ、自らが戦地に赴くことはなかったようである。
宗麟不在のために軍議で意見がまとまらず、無統制となった大友勢力はこの日向国における合戦に大敗、崩壊した(耳川の合戦)。
この敗戦によって支配力を喪失した大友領は北上する島津勢と西進する龍造寺隆信勢に蚕食されることとなり、窮した宗麟は天正14年(1586)に上洛して羽柴秀吉の援助を請うた。
九州鎮定を目論んでいた秀吉は、これを口実とするために快諾した。同年にも島津氏が日向国・肥後国からの侵入があったが翌年(1587)に大挙攻め込んだ秀吉勢の大軍が島津勢を降伏させ(九州征伐)、豊後一国のみは義統に安堵された。
この年の5月23日、津久見で病没した。疫病という。58歳。法名は瑞峰院殿瑞峰宗麟大居士。
宗麟は熱心なキリシタンとして知られるが、キリスト教と初めて接したのが天文20年、22歳のときだったという。当時周防国山口にいた宣教師のフランシスコ=ザビエルを豊後国府内に招き、その説教を聴くと「この聴聞せし説より高き説はなかるべし。この説よりよく道理に合したる説はなかるべし」と感心したという。
感銘を受けた宗麟は領内での布教を許すと同時に、府内には教会・孤児院・病院などの施設を建て、キリスト教を手厚く保護した。しかし家中の反発もあってか、この頃はまだ入信はしていない。洗礼を受けるのは日向国出兵中の天正6年7月25日、49歳のときである。このとき、宗麟のキリスト教入信を拒み続けてきた夫人(奈多八幡宮大宮司の娘)を離別し、キリシタンの新しい妻・ジュリアを迎えた。その信仰は徹底していて、領内の神社や寺院を悉く破壊した。
また、ポルトガルや明国とも積極的に交易し、天正10年(1582)には有馬晴信・大村純忠と共に、ローマに天正遣欧使節を派遣した。