大友義鑑(おおとも・よしあき) 1502〜1550

豊後国大友氏第20代。大友義長の長子。幼名は塩法師丸。通称は次郎・五郎。初名を親安、ついで親敦と改名。修理大夫。
大永4年(1524)に将軍・足利義晴から諱字を受けて義鑑と改めた。
永正12年(1515)、父・義長より『義長条々』と呼ばれる条規を授けられて家督を相続(家督相続を永正15年とする説もある)、豊後・筑後の守護となった。
同年、豊後国直入郡の朽網親満の叛乱を制圧してその地位を確立する。
永正17年(1520)、家督相続をめぐって混乱していた肥後守護の菊池氏に弟・菊法師丸(のちの菊池義武)を入嗣させて家督を継がせ、肥後国における大友勢力の扶植を図る。しかし義武は逆に義鑑支配の撹乱を策し、豊後領国内紛争の要因を作る。
所領を接する大内氏との抗争においては、大永5年(1525)に配下武将の秋月種時が大内氏武将・陶美作守に通じて筑前・筑後の所領を侵したので、これを撃破して降した。
天文3年(1534)4月には大内義隆によって派遣された軍勢と豊前・豊後国境付近の勢場ヶ原で戦うなど激化。これに菊池義武が大内側に与するなどしたために混沌とした情勢が続くが、足利義晴の和平勧告もあって、天文7年(1538)には義隆が筑前の地を義鑑に返還することで和平が成立した。
以後は禁裏修理・仏事・寺社修理料などの献金を行って将軍家との密接な関係を維持しつつ肥前支配を重視し、義武を排除して、天文12年(1543)5月に肥後守護に補任された。これにより豊後・筑後・肥後の3国に及ぶ領国を得るに至る。
この所領と優れた家臣団を擁し、九州における屈指の勢力としての地盤を固めた。天文15年(1546)には伊予国宇和郡への侵攻も企てている。
しかし、嫡子の義鎮(のちの宗麟)を廃嫡して三男・塩市丸を家督に立てようとしたため天文19年(1550)2月10日の夜、これに反対する田口蔵人佐らに斬られ、塩市丸も殺害された。義鑑は即死には至らなかったものの重傷を負い、『義鑑条々』の遺言を義鎮に与えて12日に死亡した(二階崩れの変)。49歳。法名は到明寺殿松山紹康。