管領代を務めた大内義興の長子。母は長門守護代・内藤弘矩の女。
永正4年(1507)11月15日に生れる。幼名は亀童丸。周防介・大内介・左京大夫・左兵衛権佐・兵部権大輔・伊予介・大宰大弐・兵部卿・侍従・従二位。
大永4年(1524)以来、義興に従って安芸国方面へと出陣を重ね、出雲国より南下を図る尼子氏と戦った。
享禄元年(1528)12月、父の死により家督を継ぎ、周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸の6ヶ国の守護となった。
大内家の歴代の当主はみな文化人であった。この義隆も例外ではなく、異常なまでに京都文化に憧れ、朝廷の権威や格式をこの上なく尊重したという。居館のある周防国山口へ京都の公家や学者、芸能人らを幾人となく招き、京文化の吸収に傾倒した。そうした交わりから仏教や儒教、蹴鞠、歌謡、管絃、舞楽、和歌・連歌などの造詣を深めていく。また、朝鮮や明との交易にも意を注いだ。
天文元年(1532)より九州肥前国へ侵攻、松浦党を傘下に組み入れ、沿岸海域を治めて大陸貿易の掌握に努めた。のち、宿敵ともいえる少弐(武藤)氏の討伐を目論むが、それにあたってまず少弐氏より上位の大宰大弐に任官するために朝廷へ巨額の献金をし、任官が叶った天文5年(1536)には少弐氏を支えていた龍造寺一族の長である胤栄を肥前守護代に任じ、少弐氏再興の望みを断ったうえで少弐資元を肥前国多久城に討った。ちなみに、皇室はこの大内氏の献金によってようやく後奈良天皇の即位式を済ませることができたという。
天文6年(1537)の暮れに将軍・足利義晴から幕政に参加ように促されて上洛を計画したが、領国経営に専念するためにこれを断った。
また、天文年間の初期より豊後国を本拠とする大友義鑑と交戦していたが、義晴の斡旋もあって、天文7年(1538)に筑前国の所領を義鑑に返還するという条件で和睦し、九州北部における抗争を鎮静化させた。
天文9年(1540)9月、麾下の毛利元就の拠る安芸国郡山城が尼子晴久軍に攻囲されると周防国岩国に出陣、重臣・陶晴賢らを郡山城の救援に向かわせ、この救援軍が翌天文10年(1541)1月に尼子本陣を壊滅させた(郡山城の戦い)。直後の同年4月には厳島神主家の友田興藤を滅ぼし、さらには5月に安芸国の有力領主・武田氏の銀山城を攻略、安芸国をも支配下に収めた。
天文11年(1542)より尼子氏討滅のため、大軍を率いて出雲国に侵攻(月山富田城の戦い)。しかし戦況は膠着し、越冬を余儀なくされたうえに糧道を断たれ大敗する。この敗走中に養嗣子・晴持を亡くした。これまでの「京狂い」に加え、この敗戦により、陶晴賢ら武断派との確執が深まっていったといわれる。
この陶晴賢の確執は、やがて翻意へと変わり、ついには謀叛の計画を立てるにまで至ることになる。この晴賢の変心は半ば公然のものだったといわれるが、義隆は晴賢を信頼しきっていたのか誅伐することもなく、いわば野放しにしていた。
しかし、そんな内情とは裏腹に、東に毛利氏、西には龍造寺氏を従え、大内氏の威勢は絶頂期にあった。朝廷より与えられる位階も、天文14年(1545)に正三位、17年(1548)には従二位へと昇り、武家としては将軍家に匹敵するほどの家格となったのである。
天文19年(1550)、山口に宣教師・フランシスコ=ザビエルを引見し、自身は入信しなかったがキリスト教の布教を許し、西欧文化の移入を図った。しかし生活はますます奢侈文弱に流れた。
そしてついに天文20年(1551)8月29日、大友宗麟の使者を迎えて能を興行しているときに陶晴賢に急襲され(大内館の戦い)、長門国大津郡深川大寧寺まで逃れて9月1日に自害した。享年45。法名は竜福寺殿瑞雲珠天。