友田興藤(ともだ・おきふじ) ?〜1541

厳島神社神主家の一族。安芸国佐伯郡桜尾城主。
永正5年(1508)12月、大内義興の上洛に従って在京していた厳島神主・藤原興親が病死したことによって神主家が断絶すると、同じく神主家一族の小方(おがた)加賀守と後嗣をめぐって対立した。
大内義興が永正15年(1518)の帰国後より安芸国の支配を強め、厳島神社領をも直轄化するとこれに不満を抱き、大永3年(1523)4月に安芸国佐東銀山城主・武田光和の援助を得て大内氏に叛き、安芸国佐伯郡桜尾城に入城して神主を称す。
このため同年8月頃より大内勢の攻撃を受けることとなり、劣勢ながらも武田氏の支援を受けてよく支えたが、翌大永4年(1524)10月に開城降伏し、再び大内氏への従属を余儀なくされた。また、この降伏に際して甥・兼藤に神主職を譲っている。
この後、大内氏と敵対する尼子晴久と結んで神領の奪回を企て、尼子勢が大内方の毛利元就の居城・安芸国郡山城を攻める(郡山城の戦い)に呼応して天文10年(1541)1月12日には村上水軍の助力も得て厳島を占領したが、直後の15日には村上水軍も敗退したため厳島を取り返されており、同年4月に大内義隆の軍勢によって桜尾城を攻められ、4月5日に落城して自害した。