戦国時代、瀬戸内海を勢力とした海賊衆。瀬戸内海の能島・因島・来島を本拠とし、それぞれが能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏と分立して勢力を有していたが、総称して村上氏または村上三家などとも呼んだ。
海賊といっても略奪行為が本業ではなく、帆別銭(ほべちせん=通行税)を徴収して、その見返りに諸舟の通航の安全を保証することを生業としていた。ただし、諸舟が従わない場合は武力行為も辞さなかったという。
村上氏ははじめ伊予守護・河野氏に属していた。しかし継嗣問題が起こった際、河野(弾正少弼)通直に嗣子がなかったために縁戚にあたる来島通康を迎えようとする動きがあったが、河野氏重臣らの猛反発があって断念するということがあった。以来、河野氏と反目するようになり、のちに小早川隆景に誘引されて毛利氏に属するようになる。
天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦においては毛利勢の水軍主力として、物資の海運や海戦に活躍した。天正4年(1576)の木津川口の海戦でも織田勢の水軍を焙烙戦術によって撃破、華々しい戦果を挙げている。