小早川隆景(こばやかわ・たかかげ) 1533〜1597

毛利家臣。毛利元就の三男。毛利隆元吉川元春の同母弟。幼名は徳寿丸、通称を又四郎。中務大輔・左衛門佐・参議・中納言。
天文12年(1543)、大内義隆の口添えによって竹原小早川氏に入り、家督を相続した。
天文13年(1544)より大内氏への人質となったが、19年(1550)に小早川氏の惣領家である沼田小早川氏を相続、小早川氏を統一させてその惣領となった。このとき、小早川繁平の妹を妻とした。
天文20年(1551)に大内義隆が重臣・陶晴賢によって滅ぼされたのちは、次兄・元春と共に『毛利の両川』として毛利宗家を支え、毛利氏の版図拡大に尽力した。強力な水軍戦力を後ろ盾に、主に山陽本面の攻略を担当した。
元就の没後は跡を継いだ輝元の後見役として家政を執り行い、長じては毛利氏の対外担当者としても活躍した。また智将としても名高く、羽柴秀吉は「天下の蓋とするになおも余りある」器量と賞し、隆景が没したとき、黒田孝高をして「日本から賢人がひとり消えた。この人は毛利家という大船を操る船頭のようなものだった」と言わしめたという。
天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦に際しては、巧みな外交手腕で村上水軍を味方につけ、大勝利への原動力を築いた。
天正3年(1575)、毛利氏は織田氏と戦闘を続ける石山本願寺と手を結び、石山本願寺へ兵糧の海上輸送を指揮、翌年の木津川沖の海戦では織田方の水軍の数百人を討ち取るという大勝利をおさめた。
天正10年(1582)、羽柴秀吉が備中国高松城を囲むとその講和に努め、6月の本能寺の変後に秀吉が退却するにあたっては、追撃すべしとの家中の大半の意見を抑え、秀吉の行動を黙認した。これにより秀吉の天下取りが有利に展開し、後年に秀吉はこのときの隆景の配慮に深く謝し、毛利家を厚遇するとともに隆景を本家の輝元と同格にのぼらせたという。
同年、本拠を沼田の新高山城から三原城に移す。
天正13年(1585)には毛利勢の一翼として四国征伐に従軍、伊予国より侵攻して功があり、四国平定後には秀吉より伊予国35万石を与えられた。また天正15年(1587)の九州征伐においても先鋒部隊として活躍し、筑前・筑後の両国と肥前国に1郡半を与えられて、筑前国名島城主となった。
文禄の役では第6軍の主将として渡海。文禄2年(1593)には立花宗茂らと碧蹄館に李如松の大軍を撃破する殊勲を挙げ、勇名を謳われた。
文禄3年(1594)8月に従三位・権中納言に叙任、文禄4年(1595)には豊臣政権の五大老のひとりとなるが、病のため同年、家督を養子の小早川秀秋に譲って備後国三原城に隠棲し、慶長2年(1597)6月12日に卒した。65歳。法号は泰雲紹閑。
思慮深く、仁愛に篤い武将であった。黒田長政との問答において「最も肝要なのは仁愛である。万事を決するに仁愛を以て分別すれば、叶わずとも遠からず。仁愛無き分別は才知巧みだが、それは心得違いと知るべし」と語ったという。また戦時・平時を問わず、身分の低い郎党の意見でもよく聞き入れ、それを採ったときには「何某の諫めでこのように改めた」と公言し、その者の面目を施すようにしていたという。
隆景の毛利宗家への忠誠心は厚く、輝元の御座の間を通るときは必ず膝を折り、手をついて通ったという。輝元が不在のときでもその態度は変わらなかった。また、嗣子のない輝元に、秀吉の養子・秀秋が跡継ぎの候補にあがったとき、これを阻止するために自分の養子に受けた。このとき既に隆景は弟である秀包を養子にしていたが、秀包を分家させてまでのことだった。これは毛利宗家安泰のための苦肉の策だったという。