大坂周辺の親本願寺勢力を駆逐した織田信長は、いよいよ本格的な石山攻めに取り掛かる。重臣・佐久間信盛を石山本願寺攻めの主将に命じて天王寺に入れ置き、本願寺の周囲には10の付城を築いて、堅固な包囲態勢を作り上げたのである。どんなに難攻不落と謳われる要塞に籠もっても外部からの支援、とくに食糧の供給を確保しなければ籠城戦は続けられないのである。石山本願寺の弱体化を目論んだ、信長にしては珍しい戦術だった。
この信長の包囲作戦を破るべく、本願寺法主・顕如の要請を受けた毛利氏の水軍が天正4年(1576)7月13日、大坂湾の木津川沖に出現した。率いるのは毛利水軍の児玉就英・乃美宗勝、瀬戸内海の覇者・村上水軍の頭領の村上武吉である。目的は大坂湾から木津川を経由しての本願寺への兵糧搬入であり、その勢力は兵糧船6百、これを警護する軍船3百、計9百艘から編成された大水軍である。一方の信長も海上の備えとして住吉に和泉国の水軍3百余艘を配しており、この両水軍によって木津川沖の制海権をめぐっての海戦となったのである。
しかし軍勢の数や装備、操船の技術、戦術や武装など、すべての面において毛利方の水軍が格段に勝っていた。とくに海将・村上武吉の統括する村上水軍の強さは際立っており、縦横無尽の機動性を見せる快速船から無数に放たれる焙烙玉や火矢はことごとく和泉水軍の船を焼き払い、炎上・沈没する船があとを絶たず、多くの将兵が溺死した。この戦いで河内水軍指揮官の真鍋七五三兵衛・沼間伝内などが戦死した。
こうして、圧倒的な強さを誇る毛利水軍は一艘の被害も受けることなく石山本願寺に兵糧を搬入したという。