織田家臣。右衛門尉。近江国永原長光寺城主。
織田信秀に仕え、信秀没後に信長が家督を相続するときには支持し、信任を得た。
信長が伸張する頃からの有力な家臣であり、美濃国侵攻や永禄11年(1568)の近江国六角義賢との戦いをはじめ、元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちなど、信長屈指の武将として従軍し、その権勢は柴田勝家らと比肩されるほどのものであった。
元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦においては、信長の命を受けて徳川勢への援軍として遠江国に赴いたが、精強を誇る武田勢に惨敗を喫した。その後も天正元年(1573)の朝倉征伐、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆の鎮定、天正3年(1575)の長篠の合戦や越前一向一揆鎮定、大和国の松永久秀討伐などに従軍し、数々の戦功を立てた。
また天正2年3月、信長が勅許を得て東大寺秘蔵の蘭奢待を切り取った際にはその奉行を勤めている。
石山本願寺との戦いにおいては畿内諸国の軍勢を付せられ、本願寺攻めの責任者として対陣した。
その間の天正5年(1577)に紀伊国雑賀衆の鎮定、天正6年(1578)には信長に叛いた摂津国伊丹城主・荒木村重の征伐などにも従軍、近畿方面における戦闘に奔走している。
しかし本願寺との講和後の天正8年(1580)8月、はかばかしい成果を上げることができなかったという理由で信長から激しい叱責を受け、子の信栄と共に追放処分を受けた。
その後は高野山に入り、剃髪して夢斎定盛と称した。
天正9年(1581)、大和国十津川で湯治中に病没したという。法名は洞無桂巌。没年に異説あり。