六角義賢(ろっかく・よしかた) 1521〜1598

姓は佐々木とも。南近江守護・六角定頼の子。通称は四郎。従五位下・左京大夫。承禎と号す。近江源氏・佐々木六角氏13代の観音寺城主。
天文8年(1539)閏6月に能登国畠山氏より妻を娶り、同年10月には従五位下・左京大夫に叙位・任官。
この天文年間には幕府内における事実上の執権者である管領職をめぐる権力闘争が泥沼化しており、姉(または妹)が管領・細川晴元の正室となっていた関係から天文16年(1547)と18年(1549)の北白河での合戦、天文19年(1550)の五条合戦などに出兵して晴元を援け、三好長慶らと戦った。
天文20年(1551)、流浪の将軍・足利義輝と長慶の和議を斡旋した。
天文21年(1552)、父・定頼が死没すると家督を相続した。また、定頼の死に乗じて北近江の浅井氏が侵攻を目論む動きを見せたが、太尾城に戦って撃破した(太尾城の戦い:その2)。
永禄元年(1558)には再び足利義輝と三好長慶が交戦するに際しては義輝を支援し、戦況が膠着すると和議を講じるなど、義輝の帰洛に尽力した(白川口の合戦)。
永禄2年(1559)に承禎と号し、家督を子・義治に譲って出家したが、実権は握り続けた。
永禄4年(1561)7月下旬、細川晴元の二男で自身の甥にもあたる細川晴之を擁し、三好氏勢力下の京都に向けて侵攻した。この侵攻戦は最終的に頓挫したが、紀伊国に逃れていた畠山高政や根来寺宗徒と共同戦線を執って両面作戦を展開し、三好長慶の弟・三好義賢を敗死させている。
しかし永禄6年(1563)に起こった家中の内紛(観音寺騒動)により家臣の統率力が弱化し、これより六角氏の威勢は衰退へ向かうこととなる。
永禄8年(1565)には、義輝の横死によって奈良を脱出してきた足利義昭に軍事援助を求められたが、それに応える力も失っていた。
永禄11年(1568)に義昭を奉じて上洛する織田信長に反抗したが、わずか1日の戦いで観音寺・箕作の両城が陥落、甲賀山中へと逃亡した(箕作城の戦い)。その後は三好氏や浅井氏、石山本願寺などと結んで再挙を図ったが信長に制圧され、元亀元年(1570)に降伏した。
慶長3年(1598)3月14日、宇治田原で病死した。78歳。
天文18年(1549)12月、城下町の繁栄を図るための政策として『楽市』を初めて認めた為政者でもある。