六角義治(ろっかく・よしはる) 1545〜1612

南近江守護・六角義賢の嫡男。通称は四郎。初名は義弼(よしすけ)。右衛門督。
永禄2年(1559)、父・義賢から家督を譲られた(弘治3年(1557)とする説もある)。
永禄6年(1563)10月、権力の集中を企図して重臣の後藤賢豊父子を殺害したことによって重臣層との不和が生じ、叛旗を翻した後藤一族や後藤氏縁戚の平井氏・進藤氏らによって居城・近江国観音寺城を逐われたが、六角氏家督を弟・義定に譲ることなどとする蒲生定秀の仲介案を容れて和睦、帰城した(観音寺騒動)。しかしその後も家中を統制しきれず、永禄10年(1567)4月28日に重臣たちが六角氏の専断支配に歯止めをかける『六角氏式目(別称を義治式目)』を制定するに及び、戦国大名としての支配力を失った。
永禄11年(1568)9月、美濃・尾張国を領する織田信長足利義昭を擁して上洛するために南近江への侵攻を企てた際には抵抗したが敗れ(箕作城の戦い)、重臣らは信長に降り、義賢・義治父子は甲賀郡に逃れた。ここに戦国大名としての六角氏は瓦解する。
その後は浅井長政朝倉義景武田信玄・石山本願寺などの反信長勢力と連携しつつ反抗を続けたが再起は成らず、のちに羽柴秀吉の御咄衆となり、その子・豊臣秀頼の弓の師範にもなったという。
慶長17年(1612)10月22日死去。68歳。