南近江の守護大名・六角氏の家中で起こった内紛。
永禄6年(1563)10月1日、南近江守護・六角義治(義弼)が重臣の後藤賢豊を観音寺城に招いて謀殺した。この殺害を動機づける経緯は明らかではないが、賢豊の威勢や人望を妬んだためとも、未だ父・六角義賢の影響が色濃く残って掌握しきれていない実権を自身の手に集中させるためともいわれている。
いずれにしても義治が独断でこれを実行したため重臣層からの反発を招くこととなり、とくに後藤氏と縁戚にあった永田景弘・三上恒安らは城内の邸宅を焼き払って所領に戻るところとなり、さらに後藤一族は永田・三上らの他にも池田秀雄・平井定武・進藤賢盛と語らって六角氏と敵対関係にあった浅井長政の支援を仰ぎ、10月7日に挙兵に及んだ。
この軍勢を前にして、わずかな手勢しか持たなかった義治は観音寺城を支えきれずに蒲生郡日野城主・蒲生賢秀を頼って落ち延び、箕作城に在った義賢も甲賀郡の三雲氏のもとに逃亡したのである。
義治を保護した蒲生定秀は事態を憂えて調停に乗り出し、浅井勢は愛知川以南には兵を出さないこと、後藤賢豊の二男・高治の家督相続と所領安堵を認めること、義治が隠居してその異母弟・義定を家督に据えることで離反諸将の復帰を促し、事態の収拾を図った。
この条件で双方の合意を得たことで10月20日に和睦が成立し、一応は事態は沈静化した。しかしこの騒動によって六角氏内部に不協和音が生じることとなり、六角氏の武威は衰退へ向かうこととなったのである。