蒲生賢秀(がもう・かたひで) 1534〜1584

六角家臣・蒲生定秀の子。左兵衛大夫。近江国日野城主。『六角氏式目』に署名している六角氏重臣のひとり。
永禄11年(1568)9月に織田信長足利義昭を奉じて上洛するために近江国に侵攻した際(箕作城の戦い)には抗戦したが、妹婿の神戸具盛の助言を容れて嫡子・氏郷を人質に出して帰順した。
以後は忠実な織田氏の武将として仕え、永禄12年(1569)8月の伊勢国北畠氏攻撃に従軍し、元亀元年(1570)には織田氏重臣・柴田勝家の与力に任じられた。
同年4月の朝倉征伐(金ヶ崎の退き口)には織田軍の撤退に尽力し、それらの功績もあって同年5月には本領安堵に加え、5千5百石余を加増されている。
その後も天正元年(1573)4月に近江国鯰江城、同年7月には足利義昭の拠った山城国槙島城の攻略戦に従軍、同年8月には近江・越前国境付近の刀禰坂で朝倉勢を破った(朝倉征伐:その2)。翌天正2年(1584)には柴田勝家に従って伊勢国の一向一揆掃討戦にも従軍している(伊勢長島一向一揆:その3)。
天正10年(1582)6月の本能寺の変に際しては、明智光秀から降誘工作を受けたが、安土城に在った信長の妻妾らを保護し、日野城に籠城して応じなかった。
天正12年(1584)4月17日、日野城にて没した。享年51。法名は天英恵林大徳。墓は福島県会津若松市恵倫寺。