蒲生氏郷(がもう・うじさと) 1556〜1595

近江国の豪族、日野城主・蒲生賢秀の嫡男。幼名は鶴千代。通称は忠三郎。はじめ教秀、ついで賦秀・氏郷と名乗った。正四位下・飛騨守・侍従・左近衛少将。
尾張国の織田信長によって蒲生氏の主家にあたる六角氏が駆逐された永禄11年(1568)、人質として美濃国岐阜へと赴く。
その翌年、信長に従っての伊勢国大河内城攻めが初陣。才を認められて9歳の娘・冬姫をめあわされた。その後、日野へと帰された。
元亀元年(1570)の朝倉征伐(金ヶ崎の退き口)、天正元年(1573)の近江国鯰江の合戦、朝倉征伐:その2、近江国小谷城の戦い:その2、2年(1574)の伊勢長島一向一揆:その3、3年(1575)の長篠の合戦、6年(1578)の摂津国伊丹城攻め、9年(1581)の伊賀侵攻、10年(1582)の武田征伐など数々の戦に出陣、常に鯰の前立の兜を被って部下たちの先頭に立ち、数々の武功を立てた。
同年6月の本能寺の変のときには日野に在城していたため、父・賢秀と共に安土城にいた女房衆の保護に尽力した。
信長の死後は羽柴秀吉に属す。天正11年(1583)には滝川一益を攻め、伊勢国亀山城を与えられた。同年、秀吉が柴田勝家を討って信長政権を踏襲すると、近江国日野城を安堵された。
天正12年(1584)には小牧・長久手の合戦に従軍、その軍功によって所領を南伊勢5郡に加増され、伊勢国松ヶ島(松坂)12万3千石の城主となる。
天正13年(1585)、名を氏郷と改める。
同年の紀伊征伐越中征伐、15年(1587)の九州征伐、18年(1590)には小田原征伐に従軍し、その後は秀吉より陸奥国黒川(会津)ほか42万石の領主として転封加増の沙汰を受けた。これは奥州の諸大名を統括させるための重鎮として配されたということだが、実は秀吉が氏郷の大器を恐れて奥州の僻地に敬遠したのだともいわれている。
さらにその翌年には葛西・大崎一揆鎮定の功によって加増があり、会津若松城主、92万石の大領主となる。
慶長20年(=文禄元年:1592)より文禄の役のため、肥前国名護屋に在陣するが、病を患って文禄4年(1595)2月7日に京都伏見の自邸で没した。法号は昌林院高巌宗忠。
邸内で吐血して享年40という若さで死んだが、これにも秀吉の毒殺説が浮上した。
文武兼備の名将との呼び声高く、志すところも雄大であったとされる。秀吉から会津42万石の大封を受けたとき、氏郷は少しも喜ばず、逆に京から遠いところに移されたことに無念の涙を流したという。
利休七哲』に名を連ねる茶人である。
キリシタン大名の高山重友と親しく、その勧めを受けて天正13年に受洗した。洗礼名はレオン。