紀伊(きい)征伐(紀伊太田(おおた)城の戦い)

紀伊国の北部4郡(伊都・那賀・名草・海部)には高野山・粉河寺・根来寺という三大寺社勢力と、太田党・雑賀党という二大在地領主の勢力があり、戦国期にはこの5つの勢力が互いに牽制しあいながらも共存し、他からの勢力の侵入を排除していた。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦のとき、根来寺と太田党・雑賀党は徳川家康織田信雄連合に加担し、羽柴秀吉に対して抵抗の姿勢を見せたのである。これに気を損ねた秀吉は、小牧・長久手の役の片をつけたあとの天正13年(1585)3月10日、紀州征伐の軍事行動を起こしたのである。

秀吉はまず、根来寺に使者を遣わして「旧領および侵略して得た地を返還すること。その代償として2万石の領地を新しく与える」との意向を伝えたが、無論この条件で根来衆が服するはずもない。3月21日、秀吉は先遣隊として3万の軍勢を和泉国の岸和田へと送り込み、自らも大軍を率いて大坂を進発した。
海陸呼応して南下した軍勢の総数は10万ほどといわれる。羽柴秀長豊臣秀次を副将とし、まずは和泉国の千石堀城をはじめとする諸城砦を攻めた。根来衆には鉄砲の名手が多数いたために多数の犠牲者を出したが、21日から23日にかけて諸城砦をことごとく落とし、根来寺の防衛線を完全に消失させた。
このあと、これまでの戦いに参加したした軍勢を休息させ、残る兵を二手に分け、風吹峠と桃坂の二方向より根来寺へと迫らせた。羽柴勢の大軍の前に寡兵の根来寺は24日に降伏した。このとき羽柴勢の戦術として焼き討ちは行わないことになっていたというが、結果的には火が出て大塔と大伝法堂だけを残して全山が灰となったのである。

こうして根来寺を降した羽柴勢はその勢いで紀ノ川沿いに進み、最後まで抵抗の姿勢を崩さなかった太田党の本拠地・太田城を攻めるために進軍を続けた。
当時の太田党の首領は太田宗正(左近)で、近在の農民たちも城中に籠もり、その数は合わせて5千余といわれる。また、この太田城は平城であったが周囲には堀をめぐらせ、その内側には土塁を築いて要所に隅櫓を構えるなど、近隣でも名の通った堅城であった。
秀吉は、まず(本願寺)顕如を動かして太田党に開城勧告を行ったが、宗正はこれを拒絶した。
そこで3月25日、秀吉は太田城攻めに踏みきり、まずは堀秀政を先陣、長谷川秀一を第二陣とする3千の攻撃軍を組織したが、この軍勢が紀ノ川の田井の瀬というところを渡ろうとしたところ、太田党の伏兵によって51人の武将が討死するという事態に陥った。そこで秀吉は、太田城を力攻めによって落とすことは困難であると判断し、さきの備中国高松城攻めのときのように、水攻めに切り替えることにしたのである。
紀ノ川の水をせきとめ、それを太田城の周りに流すという方法で、高さ3メートルから5メートル、土台の幅が30メートルという規模の堤が約6キロに渡って築かれた。3月25日から築堤にかかったとされているので、所伝どおりに4月1日から水を入れはじめたとすれば、驚異的な早さの工事である。
出来上がった堤内に紀ノ川の水を引き入れた途端、太田城の周りはあたかも湖のようになった。にわかに降った雨によって築堤の一部が切れたこともあったようだが、即時に土俵を買い集めてさらに堅固な堤にしたという。そこに秀吉勢が舟に乗って攻撃を仕掛けるわけであるが、逆に城方から水練に達者な者が水中より舟に穴を開けたりしたため、溺死する者が続出するという始末であったという。
しかし、やがては城中の兵糧も尽き、ようやく城兵に疲れの色が見えてきた。城中では非戦闘員の婦女子たちまで餓死しはじめる状況であった。そこで4月12日、秀吉方から蜂須賀正勝・前野長康の連名で開城勧告を送りつけたところ、太田宗正はついに勧告を受け入れることになったのである。
秀吉は降伏の条件として、城兵のうち主だった者51名の切腹を要求した。これは、緒戦で秀吉が失った武将の数である。
開城した太田城の接収は22日に終わり、同日に宗正らが切腹。他の農民たちはいずれも命を助けられ、鋤や鍬、兵糧を与えられて帰村が許されたという。
また時期を同じくして、太田党と同調していた雑賀衆残党の征伐も完了したことにより雑賀5郷は秀吉の支配下に入り、紀州平定はここに成ったのであった。