天正8年(1580)に播磨国三木城、翌9年(1581)には因幡国鳥取城を落とした羽柴秀吉は、いよいよ毛利氏の領国・備中国への侵攻を開始した。
秀吉は天正10年(1582)3月15日に2万の軍勢を率いて播磨国姫路城を出発、4月14日に備前国岡山城の宇喜多秀家らと共に宮地山城・冠山城・加茂城・日畑城を攻め落とし、清水宗治の守る備中国高松城に迫った。
秀吉は高松城を落とせるかどうかで織田・毛利の雌雄が決すると考えていたし、事実、高松城は両者にとってきわめて重要な戦略的拠点としての意味を持っていたのである。
はじめ秀吉は備中国侵攻に先立って得意の調略によってこの高松城を手に入れようと考え、宗治に対して「味方すれば備中・備後の両国を与えよう」などの甘言を用いて誘ったが、毛利氏武将・小早川隆景との旧誼を重んじた宗治は、こうした誘いには乗らずにきっぱりと拒絶している。
高松城は5千余の守備兵を擁し、平城であるが広い低湿地帯の中にあり、城へはただ一本の道が通じているだけである。守りやすく攻めにくいという地の利に守られた城である。
秀吉は、4月27日より高松城を囲んで本格的な攻撃にかかった。この日の戦いでは、一気に高松城を攻め落とそうと力攻めをかけた秀吉軍の方に数百の犠牲者が出てしまった。その後は本陣を竜王山から石井山へと進めて高松城に圧力をかけるものの、有効な手立てもないままに膠着状態となってしまった。
このままでは味方の士気は下がり、毛利の援軍が到着してしまう。そこで秀吉はさきの三木城や鳥取城を陥落させたとき同じく『干し殺し』戦法に切り替えることにした。
このとき秀吉は、高松城の置かれた地形から見て『水攻め』が最も有効と考えた。足守川を堰き止めて作った人造湖で城を取り囲み、孤立させる方法である。
具体的にその工事が始められたのは5月8日のことで、文字通り昼夜兼行の突貫工事で、長さ26町(約2.8キロ)、幅が下部で20メートル、高さ約7メートルもある大堤防を21日までに完成させてしまったのである。この大工事にあたって、人夫には土俵1俵につき銭百文と米1升という高額の報酬を与え、総額にして銭63万5千余文、米6万3千5百石という莫大な費用をつぎ込んだという。
援軍の毛利本隊が到着したのはこの堤防が完成した日のことだった。
ちょうど梅雨の時期でもあり、堰き止められて行き場を失った水はみるみる高松城を取り囲み、水浸しにしていった。これを知った毛利輝元はすぐに吉川元春と小早川隆景を送り、元春は岩崎山に、隆景は日差山に着陣し、総勢4万の大軍で秀吉軍に相対したが、水浸しの高松城をどうすることもできずに何日かを費やした。秀吉軍に決戦を挑もうにも、両軍の間には工事と梅雨のために泥沼化した田野が広がるばかりで、人も馬も身動きが取れなかったのである。
秀吉も織田信長に増援を要請する使者を送り、数で勝る毛利勢に備えた。
苦慮した輝元は(安国寺)恵瓊を秀吉の陣所に送り、講和の話し合いを進めることにしたが、条件面がなかなか折り合わず、講和交渉も難航していたのである。
そして6月3日の夕方、織田信長が本能寺の変において明智光秀によって討たれたという第一報が秀吉の陣所にもたらされたのである。これは、光秀が小早川隆景のもとへと使わした使者が、間違えて秀吉の陣所に入ってしまったためといわれており、もしそれが事実であれば、秀吉は大変な幸運を拾ったことになる。
秀吉陣営は焦った。もし信長討死を毛利側が察知すれば、毛利勢はかさにかかって秀吉勢を攻めてくるであろうことが容易に推察できるからである。退却するところを追撃されるような事態になれば、秀吉自信の命も危なくなるのである。そこで秀吉は、すぐさま毛利方への道を全て封鎖して情報の漏洩を防ぎ、その日の夜に再び恵瓊を呼び、信長の死を隠したままで講和の早期締結を要求した。その頃には既に高松城は落城寸前だったので、毛利側も講和に応じることになり、城主・清水宗治が切腹することで城兵の助命、ならびに備中国・美作国・伯耆の三ヶ国を織田方に割譲するという条件で、織田氏と毛利氏の講和が成立したのである。
翌6月4日、秀吉方からは森高政が人質として毛利陣営に送られ、毛利方からは小早川秀包に桂広繁が添えられて秀吉陣営へと送られた。正午過ぎ、清水宗治は舟に乗って秀吉の陣所近くまで漕ぎ出し、秀吉方からは家臣の堀尾吉晴が検死役としてやはり舟に乗って漕ぎ出し、宗治は舟上で切腹して果てたのであった。
信長が死んだという情報を毛利方が得たのは、宗治切腹直後のことだった。将兵からは追撃すべし、との声もあったが隆景は、信長の喪に乗じるのは不祥である、として動かなかった。
翌5日は、秀吉は何の動きも見せなかった。内心では早く上方へもどらなければと焦っていただろうが、毛利方の追撃を恐れていたのである。
そして6日になって、ようやく元春・隆景らがそれぞれ陣所を撤去して引き上げていくのを確認したうえで、秀吉は自陣を引き払ったのである。
これより、いわゆる「中国大返し」が始まるのである。