吉川元春(きっかわ・もとはる) 1530〜1586

毛利一族。毛利元就の二男。母は吉川国経の娘・妙玖。幼名は少輔次郎。治部少輔・従四位下・駿河守。
天文12年(1543)8月、兄・毛利隆元の偏諱を受けて元春と名乗る。
天文16年(1547)7月、母方の従兄弟にあたる吉川興経の嗣子となり、のちに吉川氏を継いで小倉山城に入城した。
妻は熊谷信直の娘。彼女は醜女と噂されていたが、それを承知で迎えた理由が「誰も貰い手のない娘を嫁にすれば父の信直はさぞ喜び、戦のときには死力を尽くしてはたらいてくれるに違いないと考えた」という逸話が残る。
剛勇の誉れ高く、数多の合戦で先鋒を務め、弟の小早川隆景と共に『毛利の両川』として活躍した。
元春の相続した吉川氏は石見国方面に勢力を扶持していたため、その因縁から弘治2年(1556)頃より山陰方面の経略を担当することとなり、同じく山陰地方に大勢力を築いていた尼子氏を攻める基礎を築いた。
毛利氏が九州に侵攻していた永禄12年(1569)、その隙を衝いて尼子勝久が出雲国に、続いて大内輝弘が周防国山口に蜂起したとき、軍勢を返して輝弘を討った。続く尼子勝久との抗争(布部山の合戦)においても先鋒として奮戦している。
元亀2年(1571)の父・元就の死没後は甥の毛利輝元を助けて各地に転戦する。
天正6年(1578)には中国地方に侵攻してきた羽柴秀吉の軍を播磨国熊見川に破り、上月城に籠もる尼子勝久・山中幸盛主従を破った(上月城の戦い)。
天正9年(1581)の鳥取城の戦いに援軍として赴いたときには、寡兵でありながらも背後の橋を落として自らの退路を断つという態度で死戦を挑み、決死の気迫で秀吉軍を後退させた。
天正10年(1582)に秀吉が天下を掌握すると、その下につくのを拒み、家督を長男の元長に譲って安芸国に隠居した。
天正14年(1586)、秀吉の意向を受けた輝元の懇請を容れてやむなく九州征伐に従軍したが、背中に悪性の腫れ物ができて11月15日に豊前国小倉城で病没した。57歳。法名は随浪院殿前駿州大守四品拾遺海翁正恵大居士。
元春は剛勇を広く知られた武将であるが教養も深く、永禄5年(1562)からの尼子氏征伐のとき、洗合の陣中で『太平記』40巻の書写を完成させたことは有名であり、この書写本は重要文化財として伝存している。