布部山(ふべやま)の合戦

毛利元就が尼子氏の居城・出雲国月山富田城を陥落させたのは永禄9年(1566)11月のことだった(月山富田城の戦い:その2)。このとき元就は尼子氏当主・尼子義久の降伏を容れ、その一族を全員助命し、家臣にも寛大な処置を取った。しかし、結果的にはこれが仇となったのである。
尼子遺臣の山中幸盛立原久綱・三刀屋宗忠らは密かに尼子氏再興の策を練っていた。そして永禄11年(1568)8月、毛利軍の主力が九州の筑前国で大友宗麟との対陣(立花城の戦い)のために山陰方面の防備が手薄になっていたことを好機と見て、京都東福寺で僧となっていた尼子勝久を還俗させて主将に推し立てたのである。
この勝久のもとに、浪人していた尼子遺臣らが続々と参集して軍勢ができあがった。その兵力は3千に上り、勝久はその勢を率いて尼子氏再興に向けて動き出した。
尼子勢は永禄12年(1569)6月には故国である出雲国へと侵攻、忠山に陣を築いた。そして新山城を落とすとここを本拠とし、末次・宇波・布部などに城砦を築いて侵攻体勢を固めたのである。
尼子勢は7月初旬にはかつての本城・月山富田城を包囲するに至った。その後、数度に亘って攻撃に及んだが、月山富田城将の天野隆重も元就に援軍の派遣を依頼する一方で頑強な防戦を続けており、互いにこれといった戦果を上げることができず、包囲したままの持久戦の様相となった。しかし城方では長期の籠城によって糧食が乏しくなり、将兵らの疲労の色が濃くなりつつあったのである(月山富田城の戦い:その3)。
さらには同年10月、尼子勢に同調するかのように、大友宗麟の意を受けた大内輝弘が周防国にて挙兵。毛利氏は領国の腹背に敵対勢力を抱えることとなり、挟撃を警戒した元就は即座に長府の陣を引き払って安芸国に帰還、ただちに尼子・大内の両勢力に備えることとした。
そして元就は帰国とともに吉川元春に命じて大内輝弘を討たせたことにより、さしあたって挟撃の危機は免れることができたのである。

元就は月山富田城救援の軍勢を編成するにあたって毛利輝元を総大将に任じ、吉川元春・小早川隆景宍戸隆家らをその補佐役として総兵力1万3千ほどで出征させた。
輝元は永禄13年(=元亀元年:1570)1月6日に安芸国郡山城を出発し、28日には多久和城を攻略。一方の尼子勢は毛利の援軍が到着するまでに月山富田城を落そうとしたが、堅い守りに阻まれて果たせなかった。
その間にも毛利勢は進軍を続け、多久和から三沢の鎌倉山を経て、2月12日には月山富田城南方の比田に迫った。
これを受けた山中幸盛・立原久綱ら率いる尼子主力軍は、迎撃のために月山富田城と比田の中間に位置する布部山に布陣したのである。
毛利勢は三手に分かれて尼子勢の陣へと迫った。輝元率いる本隊は中山の東方の本堂を進み、元春の隊はその西方の水谷口に向かい、隆景および宍戸隆家の隊はさらにその西方から進撃した。そして2月14日朝より尼子勝久率いる6千7百の兵と合戦に及んだ。
戦いは乱戦の様相で激しいものとなったが、軍勢に勝る毛利方の勝利となり、尼子勢が勝久の本陣である新山城へ向けて敗走したことにより、包囲網の一角を崩すことに成功したのである。
毛利勢はこの日、3百余の首級を挙げたという。
翌15日、輝元は月山富田城に入城、それまでよく持ちこたえた天野隆重の労を労った。
その後、尼子方の支城も落とされ、勝久は翌年8月、一旦は隠岐に逃れ、のち京都へと走った。