尼子勝久(あまご・かつひさ) 1553〜1578

尼子氏新宮党・尼子誠久の子。通称は孫四郎。
天文23年(1554)11月、尼子氏当主の尼子晴久の命によって祖父の尼子国久、父の誠久らが編成していた新宮党が滅ぼされたとき、小川重遠によって助けられ、のちに上洛して東福寺の僧となる。
尼子氏の本城である出雲国月山富田城が永禄9年(1566)11月に毛利元就勢の攻撃によって陥落し(月山富田城の戦い:その2)、当主の尼子義久が降伏したことによって大名としての尼子氏は滅亡したが、月山富田城の落城後に落ち延びて京都に潜伏していた尼子旧臣・山中幸盛立原久綱らに擁立され、永禄11年(1568)に還俗して名を勝久と改めた。
永禄12年(1569)6月、九州に侵攻していた毛利氏の隙を衝くように但馬国から隠岐を経て出雲に入国、秋上・横道・牛尾ら旧臣や浪人を糾合して一大勢力を作りあげ、出雲国新山(真山)城を招降させて本拠とした。
この頃の兵力は6千ほどといわれ、出雲国の大半の城主が勝久に応じた勢いで月山富田城の奪取を企図して進撃したが(月山富田城の戦い:その3)、永禄13年(=元亀元年:1570)2月の布部山の合戦で毛利勢に敗れたことをきっかけとして徐々に威勢を失い、元亀2年(1571)8月には出雲国からの撤退を余儀なくされ、京都に上って織田信長を頼り、支援を求めた。
天正元年(1573)頃より因幡国に蜂起して旧領回復を図るも、天正4年(1576)5月には吉川元春らの軍勢によって鎮圧され、但馬国を経て再び京都に逃れた。
その後は信長に中国地方の経略を任された羽柴秀吉の手に属し、天正5年(1577)12月に秀吉が播磨国佐用郡の上月城を落としたのちに守将として入城したが、毛利方の宇喜多直家に攻められ、翌天正6年(1578)2月に退去する。しかし翌月に秀吉が再度上月城を奪回すると、再び上月城に入った。
上月城は毛利氏にとっても戦略上の要衝であるため、勝久らは再度の奪回に乗り出した毛利勢の包囲攻撃を受けて窮地に陥るが、救援に駆けつけたはずの秀吉が信長の命令を受けて撤退したため、見捨てられた上月城は総攻撃を受けることとなり、7月3日に勝久は自刃、城は5日に開城した(上月城の戦い)。享年26。