尼子勝久を奉じて尼子氏の再興を企てた山中幸盛・立原久綱らは、永禄12年(1569)6月下旬に但馬国から海路を経て出雲国に侵入し、忠山に拠点を置いて決起の檄を飛ばした。これに応じて参じたのは秋上綱平・久家父子、森脇久仍、横道高光、目賀田幸宣、多賀高信、屋葺幸堅、津森幸俊、中井久家ら出雲国や伯耆国に潜伏していた旧臣らで、その勢は3千余人ともいわれる。そして間もなく多賀元龍の守る新山(真山)城を攻略するとここを本営として、かつての尼子氏本城であった月山富田城の奪回を目指して活動を開始したのである。
尼子勢は水陸の交通の要衝である末次城を奪取したあと、富田城周辺の宇波・山佐・布部などに支城や要害を築き、勝久らによる富田城への攻撃は同年7月初旬より開始された。
月山富田城は標高184メートルの独立峰に築かれ、守るに易く攻めるに難い山城であった。天文12年(1543)に1万5千の兵を率いた大内義隆が攻めあぐねて攻略できず(月山富田城の戦い)、それを踏まえた毛利元就が尼子十旗と呼ばれる支城網の一角を崩して糧道を断ったうえで持久戦に持ち込み、都合4年と5ヶ月の歳月をかけてようやく開城降伏させた(月山富田城の戦い:その2)ことからも、その堅固さが窺えるが、この頃の毛利氏は北九州で大友氏との対戦に備えて主力を投入していたため、とくに出雲・備後国の防備が手薄となっており、富田城の守兵はわずか3百ほどでしかなかったという。尼子勢はそこを衝いたのである。
尼子勢でははじめ秋上久家が一手の軍勢を率いて攻めたが、守将の天野隆重の計略に引っかかって大敗を喫したので、今度は山中幸盛・立原久綱らが城下に迫ったが落とすことはできず、月山富田城をめぐる攻防は膠着した。この後、毛利方は7月に守備兵の増強や武器・糧食の補充などを行って備えを強化し、加えて8月には出雲国の国人領主で北九州の戦線に派遣されていた高瀬城主の米原綱寛、三沢城主の三沢為清が召還された。しかし米原は8月12日には尼子氏に寝返り、熊野城主の熊野久忠も勝久に応じて尼子方の旗幟を鮮明にしたばかりか、これに先立つ8月3日には備後国神辺城の旧臣・藤井皓玄(こうげん)が蜂起して神辺城を奪取している。この神辺城は数日を経ずして毛利方に奪還されたが、9月には伯耆国末石城主の神西元通も尼子方となり、富田城を取り巻く情勢ははかばかしくなかったのである。
そして10月11日、大友宗麟の援助を受けて大内輝弘が周防国で蜂起した。これは言うまでもなく毛利氏に対抗する大友氏の後方撹乱策であるが、尼子勝久のみならず大内輝弘の軍勢に領国を脅かされてはさしもの毛利氏もそのままにしておけず、九州への勢力拡張を断念して中国地方の防衛に専念せざるを得なかったのである。
苦渋の決断を下した毛利氏は北九州戦線に投入していた軍勢を撤退させると、返す刀で同月25日には大内勢を鎮圧した。そしてその後、月山富田城の救援にも力を入れることとした。
本国で年を越した毛利氏は、出雲国の尼子勢力を鎮圧するために毛利輝元を総大将とする1万3千ほどの軍勢を永禄13年(=元亀元年:1570)1月6日に安芸国吉田郡山城から発向させた。
毛利軍は石見路から出雲国赤穴を経て、尼子方となっていた出雲国飯石郡の多久和城を1月28日に攻略すると、月山富田城を包囲する尼子勢を圧迫にかかったのである。
対する尼子勢もこれを迎撃、2月14日には両軍が布部山で激突し(布部山の合戦)、毛利勢の勝利となって尼子勢が新山城へと撤退したことにより、月山富田城の救援は成されたのである。