三沢為清(みさわ・ためきよ) 1536〜1588

出雲国仁多郡三沢を本領とした国人領主。三沢為幸の子。幼名は才童子丸。通称は三郎左衛門。下野守。出雲国三沢城主。
尼子氏に属し、三沢氏の居した三沢城は尼子十旗の第2として尼子氏の本城である月山富田城の防衛網の一角を担った。
天文9年(1540)10月、尼子晴久の企てた郡山城攻めにおける青山土取場の合戦にて父・為幸が戦死したため、家督を継承した。
この郡山城攻めの敗戦後は吉川興経・三吉広隆・多賀山通続・山内隆通・宮若狭守・出羽助盛・本城常光福屋隆兼三刀屋久祐・河津久家・宍道正隆・古志吉信と共に大内義隆に従い、天文11年(1542)から翌年にかけての大内氏による出雲国侵攻に従軍しているが、大内方の敗色が濃厚となった天文12年(1543)4月末には吉川・山内・本城・三刀屋らと共に再び尼子氏に寝返り、月山富田城に入城した (月山富田城の戦い)。
永禄5年(1562)6月に石見国を平定した毛利元就が出雲国への侵攻に着手すると、時勢を見て毛利氏に降り、本領をはじめとして尼子氏に収公されていた横田荘の所領も安堵され、藤ヶ瀬城に居した。また、同年11月に毛利氏が本城常光を謀殺すると出雲国衆の多くが毛利氏より離反したが、為清は毛利氏に属し続けた。
永禄11年(1568)からの毛利氏の北九州出征に際して従軍したが、この隙を衝いて挙兵した尼子勝久が月山富田城を攻めると(月山富田城の戦い:その3)、永禄12年(1569)8月には帰国して富田城の救援に従軍した。
天正2年(1574)、家督を嫡子の為虎に譲って亀嵩(かめだけ)に築城し、天正16年(1588)に死去した。享年53。