吉川興経(きっかわ・おきつね) 1508〜1550

安芸国山県郡大朝荘を本領とする国人領主。吉川元経の嫡男。幼名は千法師。治部少輔。
大永2年(1522)、父・元経の死去によって家督を継承し、祖父・国経の後見を受けた。
大永5年(1525)、共に尼子経久に属していた毛利元就大内義興に転じ、その後、元就から安芸国山県郡南部で莫大な所領給与を条件に大内氏方になるように誘われたが断っている。
天文9年(1540)から翌年にかけての安芸国郡山城の戦いには尼子勢として参陣し、天文10年(1541)1月13日の宮崎長尾の合戦においては毛利勢と激しく戦い、崩れそうになる尼子勢をよく支えて奮戦した。しかし、この郡山城攻めで尼子勢が敗退すると、三吉広隆・福屋隆兼・多賀山通続・三沢為清三刀屋久祐本城常光・宍道正隆・河津久家・山内隆通・宮若狭守・古志吉信・出羽助盛の12人と共に大内義隆に服属した。
天文11年(1542)から翌年にかけて大内氏が出雲国に侵攻した際には従軍しているが、大内方の敗色が濃くなると三沢・三刀屋・本城・山内らと共に再び寝返り、尼子氏の月山富田城内に逃げ込んだ(月山富田城の戦い)。これによって大内方の敗退は決定的となった。
この寝返りで大内氏から認められていた所領は没収されることになったが、天文12年(1543)8月には毛利元就の取り成しで大内氏に降り、帰国と従来の知行を許された。
興経は軍事に優れた武将であったが、その反面では倣岸で人望が薄かったとされ、寵臣の大塩氏を重用して叔父の吉川経世や宿老の森脇祐有を軽んじたために家臣団から強い反発を受けて更迭され、天文16年(1547)2月には元就二男の元春(母は興経の祖父である国経の娘・妙玖)を嗣子として家督を譲ることを余儀なくされた。
同年8月には居城としていた小倉山城を退去して毛利領内の布川に隠退したが、天文19年(1550)9月27日に実子とともに元就の刺客に殺害された。法名は桃源院安叟常仙。享年43。