天文9年(1540)から翌年にかけての安芸国郡山城の戦いでの敗戦以来、出雲国月山富田城を本拠とする尼子氏の内部では被官の離反が相次いでいた。尼子氏当主・尼子晴久が3万の軍勢をもってしても実数3千にも満たない毛利元就の郡山城を落とせなかったことや、天文10年(1541)11月に尼子氏前当主の尼子経久が没したことなどが重なった結果、吉川興経・三吉広隆・多賀山通続・山内隆通・宮若狭守・出羽助盛・本城常光・福屋隆兼・三沢為清・三刀屋久祐・河津久家・宍道正隆・古志吉信ら安芸・備後・石見・出雲国の国人領主13人が同心して大内氏へと鞍替えを始めたのだった。
新たに属するようになった国人領主の強い要請と郡山城の戦いに勝ったという自負、重臣・陶晴賢の強い進言などから、周防国の大内義隆は天文11年(1542)1月11日に尼子攻めの軍を催した。義隆自らが総大将となり、養嗣子の大内晴持や重臣の陶晴賢・杉重矩・内藤興盛・弘中隆兼ら1万5千の兵を率いて周防国山口を発向した。19日には厳島に渡って戦勝を祈願し、毛利元就や小早川正平、益田藤兼ら安芸・備後・石見国の国人領主たちもそれぞれの手勢を率いて合流してくる手筈になっていたためか、行軍速度は緩やかなものだった。
大内勢は4月に石見国邑智郡から出雲国に侵入したが、赤穴光清の守る赤穴城(別称:瀬戸山城)の攻略に2ヶ月を費やす(赤穴城の戦い)など侵攻作戦は遅々として進まず、10月になってようやく本陣を三刀屋峰に置くという状態であった。しかも、その後もこれといった軍事行動を起こすでもなく越年してしまい、義隆は本陣を宍道の畦地山、ついで月山富田城を見下ろすことのできる経羅木(京羅木)山に移した。これが2月12日のことである。
この後しばらくは対峙が続けられていたが、3月14日には大内方の内藤興盛・毛利元就ら5百の兵が菅谷口蓮池畷で尼子方の牛尾幸清・河副久盛ら1千に撃退され、下旬には金屋の洞光寺を攻めた平賀隆宗・益田藤兼らが新宮党に敗戦を喫し、4月12日には塩谷口からの攻撃を試みた毛利元就・隆元父子も敗退するなど、名城として名高い月山富田城の守りは堅く、大内勢の数度の攻撃にも陥落の兆しを見せることはなかった。
しかも糧道が遮断され、大内方の敗色が濃くなった4月晦日には、それまで大内氏に属していた元尼子属将の三刀屋久扶・三沢為清・本城常光・吉川興経・山内隆通らの国人領主たちが一斉に再び尼子氏に通じ、月山富田城に迎え入れられるという事態が起こった。この寝返りによって月山富田城の包囲網は完全に崩れ去ってしまったのである。
こうなると大内氏の劣勢は決定的となり、5月7日に経羅木山の本陣を撤して退却に取り掛かかり、石見路を経て5月25日に山口に帰還したのだった。
この退却において毛利元就は殿軍として尼子勢を追撃を受け、元就自身も危機に晒されたが、渡辺通が身代わりとなって難を逃れたという。また、海路を取ろうとした晴持は乗っていた舟が転覆したために溺死してしまったという。
この1年4ヶ月にも及ぶ遠征の挙句の敗戦は、大内氏衰退の一因となった。