三刀屋久祐(みとや・ひさすけ) ?〜1591

出雲国飯石郡三刀屋郷を本領とした国人領主。三刀屋城主。通称は新四郎。名を久扶(ひさより)とも。弾正忠。三刀屋城は尼子(出雲)十旗の第3。
三刀屋氏は越後国頚城郡佐味荘の地頭であった諏訪部氏を祖とし、承久3年(1221)に新補地頭として三刀屋郷に下向したのに始まる。
戦国期には尼子氏に属し、天文9年(1540)から翌年にかけての尼子晴久による安芸国郡山城の戦いに従軍しているが、敗戦後には吉川興経・三吉広隆・多賀山通続・山内隆通・宮若狭守・出羽助盛・本城常光福屋隆兼三沢為清・河津久家・宍道正隆・古志吉信と共に大内義隆に帰属した。
天文11年(1542)から翌年にかけての月山富田城の戦いには大内方として従軍していたが、天文12年(1543)4月晦日に至って三沢為清・本城常光・吉川興経・山内隆通らと共に突如として尼子方に寝返って入城し、月山富田城の包囲網を瓦解させることに成功した。
永禄5年(1562)に赤穴久清の取り成しで毛利元就に服属した。毛利氏の軍事編成においては吉川元春の麾下に付され、同年12月27日には八畦峠で熊野入道西阿を破っている。
永禄6年(1563)の白鹿城の戦い月山富田城の戦い(その2)、永禄13年(=元亀元年:1570)2月の布部山の合戦にも毛利方として参戦した。
天正元年(1573)には天台座主補任問題の調停に尽力し、正親町院より毛氈鞍襲弓袋などの使用を許可されている。
天正16年(1588)に上洛した際、聚楽第で徳川家康と面会したため主君の毛利輝元から疑われ、出雲国から追放された。
天正19年(1591)10月20日死去。