毛利輝元(もうり・てるもと) 1553〜1625

毛利隆元の嫡子。母は大内義隆の養女(内藤興盛の娘)。毛利元就の孫にあたる。幼名は幸鶴丸。通称は少輔太郎。従三位・右衛門督・右馬頭・侍従・参議・権中納言。
天文22年(1553)1月22日、安芸国高田郡郡山城で出生。永禄6年(1563)8月4日に父・隆元が安芸国佐々部で急死したため11歳で毛利氏の家督を継ぎ、祖父・元就の後見を受けた。
永禄8年(1565)に元服、将軍・足利義輝の一字を受けて輝元と名乗る。同年春、尼子氏との持久戦が続く月山富田城に参陣、翌年(1566)11月には尼子義久を降した(月山富田城の戦い:その2)。
永禄11年(1568)、重臣・宍戸隆家の三女を娶る。
元亀2年(1571)の元就没後は叔父である吉川元春小早川隆景の補佐を受け、中国地方全域にその勢力を拡大した。
天正5年(1577)以降、侵攻を企てる織田家の武将・羽柴秀吉と中国地方の各地で干戈を交えたが、天正10年(1582)6月、本能寺の変が起こったことにより、備中国高松城下で停戦、講和。この講和が結ばれるに際して輝元は激しい拒否の姿勢を見せたが、小早川隆景らの説得を容れて、これを受諾したという。
天正12年(1584)頃から秀吉に服属し、天正13年(1585)の四国征伐、天正15年(1587)の九州征伐にも出兵。
天正16年(1588)、従四位下・侍従に叙任、羽柴の姓を許された。
天正17年(1589)に佐伯郡五箇庄(広島)に広島城の築城を開始し、慶長19年(1591)1月に父祖伝来の吉田郡山城から広島城へと居城を移した。
天正18年(1590)の小田原征伐にも出陣、翌19年3月に安芸・長門・周防・石見その他中国地方10ヶ国、120万石を安堵された。
文禄慶長の役では大将として出動して主力を担い、慶長3年(1598)に五大老のひとりとなる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では輝元自身が直接参戦することはなかったが、家臣の(安国寺)恵瓊に説かれて西軍の盟主となり、大坂城に入城する。しかし西軍が敗戦したことにより同年10月、周防・長門2国の29万余石に減封された。こののち入道して幻庵宗瑞と号して隠居し、家督を長男・秀就に譲るが、依然として国政は輝元が執った。
慶長8年(1603)、京都伏見から帰国して周防国山口に入り、翌9年(1604)、長門国阿武郡萩指月山に築城して移った。
寛永2年(1625)4月27日、萩の四本松邸で死去。73歳。法号は雲巌宗瑞天樹院。墓所は萩市堀内の天樹院跡。