宍戸隆家(ししど・たかいえ) 1518〜1592

毛利家臣。通称は弥三郎。初名は元家。父の名は不詳、母は山内直隆の娘。左衛門尉・安芸守・従五位下。甲立五龍城主。
安芸国高田郡の甲立郷を本拠とした国人領主で、源頼朝に仕えた八田知家の四男・家政が常陸国宍戸に居住して宍戸を称したことに始まる。
建武元年(1334)、朝家の代に甲立に下向し、のちには毛利氏とともに国人領主間の争論を調停するよう幕府から命じられるなど、安芸国の国人領主のなかでも有力領主であった。しかし所領が毛利氏と隣接していたことから毛利氏との抗争も繰り返しており、永正3年(1506)に毛利弘元が嫡子・興元に対して宍戸氏と友好な関係を築くように遺言するなどしている。
そして天文2年(1533)、隆家の祖父・元源と毛利元就は和を結ぶに至り、翌年1月には元就が五龍城を訪れて元就の娘を隆家に嫁がせることとした婚姻政策が成立し、友好が深まったのである。
元就の娘婿となった隆家は元就の子である毛利隆元吉川元春小早川隆景らと同格の一門として重きをなして諸戦に活躍、毛利氏の中国経営に大きな役割を果たした。とりわけ天文23年(1554)の折敷畑の合戦や、その後の石見国侵攻においては吉川元春と軍事行動をともにし、二女を元春の嫡子・元長に、三女を元就の孫・毛利輝元に嫁がせるなどして毛利氏との関係をより緊密なものとした。
領国経営においては、毛利氏から備後国の国人領主・山内氏への知行問題を取り次ぐなど備後国北部の領主を統括し、その支配を担った。永禄13年(=元亀元年:1570)、蜂起した尼子勝久の軍勢に出雲国月山富田城が包囲されたときには元春らとともに救援に赴いている(布部山の合戦)。
天正20年(=文禄元年:1592)2月5日死去。享年75。法名は天叟覚隆。甲立天叟寺に葬られ、現在はその寺跡に五輪塔が残る。また、墓所の向かいの山の中腹にある灰塚と呼ばれる土地は、隆家の火葬場跡と伝わる。