毛利弘元(もうり・ひろもと) 1468〜1506

安芸国の国人領主。毛利豊元の嫡男。幼名は千代寿丸。妻は福原広俊の娘。治部少輔・備中守。安芸国高田郡吉田郡山城主。
文明7年(1475)11月に父・豊元より所領を譲られ、翌文明8年(1476)5月末の豊元の死没を受けて毛利氏惣領となったが、未だ9歳と弱年であったため、毛利氏庶家の坂広正・広時兄弟が執権として家政を執った。
文明10年(1478)2月に元服し、大内政弘の一字を受けて弘元と名乗る。
当時の芸備地方は東に細川氏、西に大内氏といった大勢力が蟠踞しており、その谷間に置かれた国人領主は去就に迷う時期であったが、毛利氏は応仁の乱最中の文明3年(1471)に西軍に寝返って大内氏に与力してからその路線を維持している。文明14年(1482)3月には大内氏から豊前国内で知行地を与えられており、半ば被官と化したような立場にあったとみられる。
大内義興(政弘の子)は明応8年(1499)までには、かつて足利義澄(室町幕府11代将軍)や細川政元によって将軍位を更迭された前将軍(10代将軍)・足利義稙の復権に助力することを企図しており、それが明らかになると毛利氏にも細川方から調略の手が伸びた。そして明応9年(1500)3月に至って義稙が大内氏を頼って周防国に下向してくるに及んで、3月29日、弘元は未だ8歳の嫡男・幸千代丸(のちの毛利興元)に家督を譲り、二男の松寿丸(のちの毛利元就)とともに多治比の猿掛城に入って隠退した。これは、自身が隠退することで責任の所在を曖昧にし、大内・細川の両勢力からの圧力を回避するためであった可能性もある。しかし両勢力とも未だ弘元を毛利氏当主と見て合力を求めており、その圧力からは免れ得なかった。
文亀元年(1501)には幕府(細川)・大内の双方に対し、否とは伝えられずに忠節を尽くす旨の返事をしているが、文亀2年(1502)に細川政元が足利義澄と不和になったこと、大内氏でも未だ足利義稙を擁して上洛するには至らなかったため、両属を咎められることはなかった。
永正3年(1506)1月21日死去。享年33。
弘元の死後まもなく、おそらくは重臣たちの意向によるものであろう、毛利氏は大内氏への従属を決めている。