毛利豊元(もうり・とよもと) 1444〜1476

安芸国の国人領主。毛利熈元の嫡男。幼名は松寿丸。安芸国高田郡吉田郡山城主。
文安6年(=宝徳元年:1449)4月、備後守護・山名是豊の一字を拝領して豊元と名乗ることを許された。
宝徳3年(1451)8月に父・熈元より所領を譲られ、享徳2年(1453)9月に幕府から承認される。
寛正元年(1460)、一族惣領の権限として反抗的な態度を示す庶家の麻原是広を攻めてその所領を没収したが、幕府の要職者に取り入った是広から訴えられて逆に罪科に処せられ、内部荘と豊島郷を没収された。
寛正4年(1463)3月、畠山政長畠山義就の分裂抗争に際し、山名是豊に従って政長方として参陣、翌年8月まで河内国を転戦した。この間の寛正5年(1464)2月に父・熈元を亡くし名実共に毛利氏惣領となるが、この前年の6月に記された遺言とも言うべき内容の譲状において、寛正元年の麻原氏との政争で没収された所領の回復を託されている。
これを果たすべく文正元年(1466)3月に申状を幕府に差し出して没収地の返付を請願しているが、解決を見ぬままに応仁の乱を迎え、烏帽子親である山名是豊が細川勝元と懇意であった経緯から細川勝元方(東軍)に属し、畿内での抗争に合力するため上洛して京都の各所を転戦した。
文明2年(1470)9月には再び没収地の返付を幕府(東軍:細川方)に訴えているが、この頃には腰の重い幕府に見切りをつけていたであろうことが推察される。
文明3年(1471)7月、山名是豊を通じて細川勝元より帰国を許される。しかし豊元は帰国後の閏8月に至って西軍に転じた。この直後には幕府より没収地の返還が聞き入れられたが豊元は依然として西軍に属し、西軍方の大内政弘に与力して安芸・備後国を転戦、東軍方沼田小早川氏の本拠である備後国高山城への攻撃や大内氏領安芸国東西条の攻防戦などにおいて功績を挙げ、両国において所領を獲得して版図を増大させた。
文明7年(1475)11月、所領を嫡男・千代寿丸(のちの毛利広元)に譲り、翌文明8年(1476)5月28日に病没した。33歳。飲酒の害によるものという。