大内教弘の嫡男。幼名は亀童丸。通称は太郎。従四位上・新介・大内介・周防介・周防権守・左京大夫。周防・長門・豊前・筑前国の守護。これらの守護領国の他、石見・安芸・肥前国にも勢力を有していた。
寛正6年(1465)、寛正伊予の乱の陣中に没した父・教弘のあとを受けて家督と遺領を相続し、河野通春と提携し、伊予国の支配を目論む細川勝元勢を撃破した。
文正2年(=応仁元年:1467)より始まる応仁の乱に際しては、細川勝元(東軍)に対抗する山名宗全(西軍)に応じて同年6月に周防国山口を発向、九州の兵をも含めた大船団で上洛して西軍の主力として重きをなした。
この出征中に少弐教頼が筑前国にて挙兵したが、縁戚の大友氏の助力を得て鎮圧した。しかし大友氏はのちに東軍に転じて豊前国に侵攻、筑前国では少弐教頼の子・政資も挙兵するなど、領国の留守を撹乱されている。
また文明2年(1470)には長門国にあった伯父・大内教幸(道頓)が東軍と結んで叛乱を起こしたために領国の多くが侵略される事態となったが、重臣・陶弘護らの活躍で守り抜き、教幸を逐っている。
京都での戦乱が収束したと見て文明9年(1477)11月に帰国したのちは領国経営に意を注ぐとともに、石見・安芸国にも勢力浸透を図っている。
長享元年(1487)には将軍・足利義尚からの近江国六角高頼討伐(鈎の陣)への出兵要請に応じて問田弘胤を派遣した。これは長享3年(=延徳元年:1489)3月に義尚が没したことによって頓挫したが、延徳3年(1491)に足利義稙が将軍職を継ぐと自ら上洛して援け、中央政権における大内氏の名声を高めた。
武威だけではなく、学問や文化への造詣も深かった。ことに和歌は数多の作を遺しており、政弘による歌集『拾塵和歌集』には1500首が収められている。宗祇の『新撰菟玖波集』にも75句の作品が収められているが、この本を撰する動機を与えたのが政弘だといわれている。また、画僧の雪舟も政弘の保護の下に腕を磨いたという。
この政弘の気風に触発され、政弘の拠る周防国山口は公卿・禅僧・学者らが数多訪れ、文化都市として大いに繁栄した。
明応3年(1494)の秋、病を患って家督を嫡子・義興に譲る。翌明応4年(1495)9月18日に没した。享年50。法名は法泉寺殿直翁真正。