少弐教頼(しょうに・のりより) ?〜1468

筑前国少弐氏・少弐満貞の三男。少弐嘉頼の弟。幼名は松法師丸。大宰少弐。
永享5年(1433)8月に父・満貞が周防国の大内持世に攻められて敗死したとき、叔父の横岳頼房や兄の嘉頼とともに対馬国に逃れ、島主・宗貞盛の扶持を受けた。
永享13年(=嘉吉元年:1441)1月の嘉頼の死没を受けて家督を継承し、これを契機として将軍・足利義教より赦免されるとともに一字を与えられて教頼と名乗り、大宰少弐に任じられた。
同年6月に嘉吉の乱が起こると赤松氏討伐令を受けて海路で播磨国へ向かったが、海が荒れて着陣が遅れ、到着した9月下旬には赤松氏討伐は終わっていた。この参陣の遅れを大内教弘に讒言され、10月には幕府より討伐令を引き出した大内氏によって攻められ、肥前国や対馬国で戦うも敗れた。
寛正6年(1465)の寛正伊予の乱において、幕府方として出陣した大内教弘が、管領として幕府の中枢に在る細川勝元の勢力拡大を警戒して河野氏方に転じると、幕府は同年9月に筑前守護を大内氏から教頼に交替させている。
応仁の乱に際しては東軍に属し、西軍に与した大内政弘が軍勢を率いて畿内に出征している隙を衝いて筑前国に勢力を広げたが、応仁2年(1468)12月、筑前国怡土郡において大内・大友連合軍と戦って討死した。