少弐貞頼の子。幼名は氏法師丸。筑前守護。
応永11年(1404)6月、父・貞頼の死去に際して家督を継ぐ。貞頼は九州探題・渋川満頼に抗戦して北九州での所領拡大を目指していたが、満貞は応永12年(1405)5月に九州探題へと降伏した。貞頼の保持していた筑前守護職は、貞頼の死去後は史料に見えず不詳であるが、応永15年(1408)には満貞がその職に在ることが確実であり、家督相続時または九州探題への降伏時に安堵されたとも見られる。
応永26年(1419)の応永の外寇に際しては直接に参戦はしなかったようであるが、その後の外交交渉において対馬島主・宗貞盛の後ろ楯として関与し、宗氏に有利な条件を引き出すことに成功している。
応永30年(1423)5月、満貞は千葉兼胤と連合して兵を起こし、九州探題の渋川義俊(渋川満頼の子)を筑前国博多に攻め破り、応永32年(1425)4月には菊池兼朝と連合して渋川氏を博多から逐うが、10月には渋川氏を支援して出馬した大内盛見に敗れて撤退した。
永享元年(1429)、大内盛見が上洛した隙を衝いて菊池持朝とともに挙兵。
永享2年(1430)に筑前国は幕府の料国(直轄領)とされ、その管轄を委ねられた盛見と、筑前国に所領を持つ大友持直が抗争に及ぶと、満貞は大友氏に合力。永享3年(1431)1月、大友持直を援けて大内盛見を豊前国に退かせ、同年6月末には盛見を敗死に追いこむ。
しかし永享5年(1433)3月には幕府より少弐・大友氏の追討令が下され、8月16日、大内持世に攻められて筑前国秋月で戦死した(一説には19日に自刃)。享年40。法名は千里本勝。