渋川満頼(しぶかわ・みつより) 1372〜1446

九州探題・渋川義行の子。妻は斯波義将の娘。左近将監・右兵衛佐。備中・摂津・安芸・肥前国の守護職を歴任。九州探題。
永和元:天授元年(1375)8月、父・義行の死没を受けて備中守護職を継承する。この職は明徳4年(1393)6月までには解任されて後任に細川満之が就いているが、翌応永元年(1394)10月、岳父で管領職に在った斯波義将の推挙で細川頼元の後任として安芸守護に任じられ、応永10年(1403)6月まで在職した。
また、この間の康暦元:天授5年(1379)閏4月には細川頼元の後任として摂津守護にも補任されているが、永徳3年(1383)11月には再び頼元が補任されており、これら細川氏との交代人事は幕閣内における細川氏と斯波氏の主導権(管領職)争いによるものと見ることができる。
応永3年(1396)、これも岳父の義将の画策によるものだろうが、前年に解任された今川了俊に代わって九州探題に補任され、4月に筑前国博多に入部した。
しかし筑前守護の少弐貞頼は権益が競合することなどから反抗的で、かつて南朝方勢力であった肥後国の菊池武朝と結んで反探題的な行動をとり続けた。これに対して満頼は任地に勢力基盤を持ち得なかったため自前の軍勢が乏しく、大友親世大内義弘の支援に頼らざるを得なかった。
応永5年(1398)末頃には少弐・菊池氏の反抗も沈静化したが、翌年末の応永の乱において義弘が討死すると、その後継をめぐって大内領国で内訌が生じ、それが北九州にも飛び火したために満頼も巻き込まれることとなり、応永7年(1400)5月には豊前国で大内盛見と戦っている。
また、肥後国阿蘇社の北朝系・南朝系双方の大宮司の内訌、さらに後者と結んだ菊池武朝・兼朝父子の反幕府的行動に苦慮するなど、政治的手腕は今川了俊には及ばなかった。
応永13年(1406)に剃髪して道鎮と号し、応永26年(1419)に九州探題の職を辞して子の渋川義俊に譲った(一説には応永25年)。肥前守護にも任じられているが、在職が確認できる期間は応永22年(1415)から応永24年(1417)である。
文安3年(1446)3月13日、京都で没した。享年75。