宗貞盛(そう・さだもり) 1385?〜1452

対馬島主・宗貞茂の子。至徳2:元中2年(1385)の生まれか。幼名は都都熊丸。通称は右馬、彦六。刑部少輔を称す。
応永21年(1414)の対馬一宮・下津八幡宮の社殿棟札銘には未だ幼名で記されており、元服は応永27年(1420)の冬頃とみられる。
応永25年(1418)4月に父・貞茂が死没したことを受けて宗氏の家督を継ぐ。翌年6月、倭寇征討のためとして対馬を襲撃した朝鮮軍を退け(応永の外寇)、その後の外交交渉において、朝鮮国との貿易に必要な図書(印)を得た。
応永33年(1426)、貿易の統制を強化するため、朝鮮王朝と共同で文引制度を確立させる。文引とはいわば朝鮮国渡航の許可証で、これを持たない者は朝鮮国との通交(貿易)ができなかったため、その発給権を握る貞盛の権威は貿易を望む商人のみならず、宗氏の一門や被官においても上昇した。また、日常的な交易や漁業に関しても規制する権限を得て、嘉吉元年(1441)には日本人が朝鮮近海に出漁できる約定を結ぶ(弧革島釣禁約)など特権的地位を得たが、文引の発給者の責務として文引所持者の保護や紛争の調停など、安全保障にも力を尽している。
これらの権限を得たことで、文引さえ発給すれば自身のみならず他者へも通交権益を分配できるようになり、いわば恣意的に貿易を差配していたと思われるが、これを問題視した朝鮮側より、嘉吉3年(1443)には1年間に貿易船を派遣できる回数(歳遣船数)を50回と定められる(嘉吉条約。朝鮮側では癸亥条約と称す)。
北九州の争乱においては父と同様に、大内氏との抗争を抱える少弐氏に属してたびたび北九州に出陣した。永享4年(1432)3月頃にも少弐満貞の要請を受けて筑前国に渡海し、博多を掌握しているが、その実情は少弐氏麾下としてのもので、少弐氏が駆逐されると宗氏も撤退したものと思われ、永享8年(1436)には大内氏との抗争に敗れて没落した少弐嘉頼(満貞の子)を対馬に庇護している。
嘉吉3年には嫡子・千代熊丸(のちの宗成職)を朝鮮国に通交させて自身の後継者であることを内外に示しているが、この成職の名は幕府将軍・足利義政(初名を義成)から一字を与えられたものと見られており、文安2年(1445)から宝徳元年(1449)までの間に本姓を少弐氏被官を意味する惟宗氏から平氏に改姓していることと併せると、従来の少弐氏被官という身分から脱却し、幕府への直属を図ったものと考えられる。
宝徳3年(1451)に隠居して成職に家督を譲り、翌宝徳4年(=享徳元年:1452)6月22日に死去した。享年68か。