宗成職(そう・しげもと) 1419?〜1467

対馬島主・宗貞盛の嫡男。応永26年(1419)生まれか(応永27年(1420)生まれとする説もある)。幼名は千代熊丸。通称は彦六。刑部少輔。
嘉吉3年(1443)2月には幼名の千代熊丸名義で朝鮮国と通交し、翌嘉吉4年(=文安元年:1444)1月に元服した。初めは実名を盛職(もりもと)と名乗ったとされるが、宝徳元年(1449)11月までには成職と改名している。この「成」の字は幕府将軍・足利義政(当時は義成と称していた)からの偏諱とされる。それまでの宗氏本宗家の当主は、主家としていた筑前国の少弐氏から通字または偏諱の授与を受けていたが、この成職への改名は、同時期に行われた惟宗氏から平氏への改姓と併せて、少弐氏の被官という身分から脱却して幕府と直接の主従関係を結んだ表れであるとも考えられる。
宝徳3年(1451)に父・貞盛の隠居を受けて家督を相続し、父と同様に遣明船・遣朝鮮船(貿易船)の差配、その警固や安全保障に従事した。
この遣船制度の利権は宗氏の領国経営に不可欠のものであり、嘉吉3年に朝鮮国と宗氏の間で取り決められた「嘉吉条約」(朝鮮側では癸亥条約と称す)で歳遣船数(年間に派遣できる貿易船)を50回と定められていたが、成職はこの増加を画策し、家臣が歳遣船を派遣できるようにすることで利権を増強させた。さらには、架空または実在の人名を騙る「偽使」を仕立てて通交を行ったという。
なお、この家督相続ないし翌年の貞盛死去に際し、対馬守護職も継承したとみられる。
康正元年(1455)、召に応じて上洛し、将軍の義政に謁している。
寛正6年(1465)、第12次遣明進貢船の派遣に際して、対馬浦々の警固を命じられる。
応仁元年(1467)に死去。享年49か。没日は不詳であるが、同年2月には成職が書状を発給しており、9月以降は従弟(貞盛の弟・盛国の子)の宗貞国が守護に相当する立場で書状を発給していることから、この間に没したとみられる。
嗣子がなかったため、宗氏の家督はこの宗貞国に継承された。