宗貞国(そう・さだくに) 1422〜1494?

対馬国豊崎郡主・宗盛国の二男。宗貞盛の甥。通称は彦七。刑部少輔・讃岐守。
応仁元年(1467)、宗氏惣領の宗成職が嗣子なく没したため、成職の従弟にあたる貞国が本家の家督と対馬守護職を継承した。応仁2年(1468)には通交(貿易)のあった朝鮮国からの使節を対馬に迎接している。
宗氏は先々代の貞盛の頃より、主家としていた少弐氏からの自立を図りつつあったが、少弐氏が大内氏に本貫地の筑前国を逐われると対馬に庇護しており、応仁の乱に際して少弐教頼が筑前国で軍事を行うにあたって一門の宗盛直を従軍させている。この両名は同年12月に筑前国で討死したが、東幕府方の要請に応じて教頼の子・少弐政資(別称を頼忠・政尚)を奉じて文明元年(1469)7月に筑前国に出征し、東軍方の大友親繁と提携して西軍であった大内方の軍勢と戦い、大内氏に奪われていた旧領を回復して政資は大宰府、貞国は博多を掌握した。
しかし文明2年(1470)の冬、肥前国千葉氏の内訌に介入していた政資から強要されて兵を出したあげくに敗戦して兵を失ったため不和となり、加えて文明3年(1471)の春、対馬に朝鮮国からの使節が訪れたこともあって貞国は政資に断りなく帰島し、これ以後は少弐方として九州に渡ることはなかった。
この後、少弐政資は畿内から帰国した大内政弘によって文明10年(1478)9月に筑前国を逐われたが、宗氏の庇護を得られずに肥前国に逃亡している。
領国経営の形態としては、朝鮮国や明国との通交に必須である文引(渡航許可証)の発給に関する権益が大きな柱で、これを集約・分配することで宗氏一族や被官を支配した貞盛・成職の路線を継承している。農地の少ない対馬国を統治するにあたってこの権益は不可欠であり、約定でこの上限は決められていたが、貞国も貞盛や成職の例に漏れずにこれを破っていたようで、先述した文明3年の朝鮮使節はこの約定を遵守するよう貞国に求めている。
所伝によれば明応元年(1492)に子・材盛に家督を譲って明応3年(1494)に没したというが、朝鮮側の記録では明応3年7月に貞国が朝鮮国の使節と面会したときに病状が芳しくないことを述べており、明応4年(1495)11月までは貞国名義の朝鮮遣使が確認され、明応5年(1496)3月には弔問のため朝鮮国からの使節が対馬を訪れていることから、明応4年暮れ頃ないし明応5年のはじめ頃に没した可能性もある。