少弐政資(しょうに・まさすけ) 1441〜1497

少弐教頼の子。少弐満貞の孫。初名は頼忠。将軍・足利義政より一字を与えられて政尚と名乗り、のちには政資と改名した。官途は大宰少弐。
少弐氏は鎌倉時代より筑前国を基盤とする有力大名であったが、政資の父・教頼の頃より大内氏に逐われて没落し、対馬国の宗氏の援助を受けており、文正2年(=応仁元年:1467)からの応仁の乱に際しては東軍に与し、西軍に属した大内氏と交戦した。
文明元年(1469)7月頃、支持勢力である対馬守護・宗貞国とともに対馬から筑前国に侵入して大内軍を破り、故地の大宰府を制圧して旧領を回復した。以後は博多を押さえた貞国とともに少弐・宗氏連合による筑前国の支配体制を固めるが、間もなく貞国と不和になって見限られ、文明9年(1477)11月に大内政弘が帰国し、翌年には北九州に侵攻。政資はこれに抗しきれずに肥前国に逃れた。
以後は東肥前の局地的な勢力となり、同じく肥前国に拠った九州探題・渋川氏との抗争を繰り返し、文明15年(1483)には綾部城に拠った渋川満寿丸を逐い、延徳元年(1489)には万寿丸の子・刀禰王丸(のちの渋川尹繁)らを攻めて筑後国に没落させ、肥前国北域に勢力を伸ばした。また、この間の文明18年(1486)には、肥前国小城の千葉氏の内訌への介入の度合いを深め、弟を千葉胤朝の娘に娶わせて千葉胤資と名乗らせている。
さらには豊後国の大友政親と結んで筑後国へも進出し、肥前・筑後国の過半を制圧したのちは宿願の筑前国回復を窺い、明応5年(1496)には筑前国高祖城を奪取してその足掛かりとした。
しかし同年12月頃より大内義興が少弐氏追討に動き出すと、圧倒されて肥前国へと退き、翌明応6年(1497)3月頃に政資は実弟・千葉胤資の拠る晴気城、子の高経は勢福寺城で防衛に努めたが、間もなく勢福寺城は陥落。晴気城も4月に落城し、胤資は戦死し、政資・高経父子は城外に逃れたが、落城の翌日に政資は多久の専称寺で自害した。享年57。子の高経も市ノ川で自害した。