応永(おうえい)外寇(がいこう)

鎌倉時代より、日本から朝鮮半島や中国大陸に侵入して乱暴な行為を行い、物品や人々を略奪するという悪行を働く者が現れるようになった。『高麗史』には高麗国での元号でいう高宗10年(1223:和暦では貞応2年)4月付で「倭金州に寇す(あだす)」と記されており、「倭」とは日本、「寇す」とは「仇する」を意味し、つまり先方ではこれら危害を加える日本人を倭寇と称するようになっていたことがわかり、この記事が倭寇の初見とされる。
主な倭寇は壱岐や対馬、肥前国松浦の土豪や農民だったという。とくに対馬は田地に乏しく、海産物などによって自活するよりなかったが、時代が下るとともに造船技術が発達すると、海を渡って高麗国や中国大陸の沿岸地域の村々を襲撃し、食糧としての農産物を略奪するようになった。
これに対して高麗国も武力行使による倭寇の討滅を図ったり、九州大宰府の現地責任者である武藤(少弐)氏に対して禁寇を依頼するなどの対策を取ってはいるが、倭寇の勢力は拡大を続け、1374年(応安7)から1389年(康応元)の15年間は倭寇の全盛期となり、1379年(康暦元)の倭寇は武装も戦術も格段に進展しており、初期の「盗賊」ではなく、もはや「軍勢」と呼ぶべきほどの集団であったという。
その後、高麗国でも硬軟併せた政策が奏功して倭寇はしだいに沈静化に向かうが、こうした情勢のもと、朝鮮国(1392年に建国)は倭寇の討滅を企てたのである。

応永25年(1418)4月、倭寇の禁圧に実績を挙げた対馬島主の宗貞茂が病没し、子の都都熊丸(のちの宗貞盛)がその地位を継承したが、その1年後の応永26年(1419)5月、32艘の倭寇の船団が朝鮮国忠清南道庇仁県の都豆音串を襲撃している。都都熊丸は未だ元服しておらず島内を統制できていなかったとみられ、加えて日本では飢饉が蔓延していた。
倭寇の再興を危惧した朝鮮国は対応を協議し、前国王の太宗の主導によって倭寇の巣窟と見られていた対馬の征討が決められた。このとき太宗は「対馬はもとは我が国の地であるが、距離が離れていて土地も狭いため倭奴が住みついてしまった」との認識を示し、加えて、対馬への軍勢派遣を「対外戦争」ではなく、「自国の問題への対応」としている。
そして同年6月20日(明暦。以下同)、227艘の軍船と1万7千余の軍勢で編成された朝鮮軍が、対馬の上島と下島を隔てる浅茅湾に到達した。
朝鮮軍の総指揮官・李従茂は使者を遣わして都都熊丸に通書したが、都都熊丸側はこれを黙殺。このため朝鮮軍は「賊船」や「賊戸」を襲撃、さらには小船越に柵を築いて上島と下島を分断する。
左・中・右の3軍からなる朝鮮軍は26日に一斉に仁位郡への上陸を試みたが、右軍は上陸に成功するも、左軍と李従茂が率いる中軍は伊那郡主・宗資茂率いる対馬勢に阻まれて敗北を喫した。この戦いで、朝鮮軍は180名ほどの戦死者を出したという。
この後、都都熊丸が暴風期が近いことを警告するとともに停戦と修好を求めたため、朝鮮軍は翌7月に撤退するに至ったのである。
この戦いは、対馬では「糠岳の戦い」とも伝承され、韓国では「己亥東征」と呼んでいる。

こうして軍事抗争は終息を見るが、都都熊丸には戦後処理交渉が待ち受けていた。
この糠岳の戦いから朝鮮軍の撤退にかけてと時期が重なるが、6月29日に太宗は李従茂を通じて都都熊丸に「全島民が朝鮮に来朝・投降せよ」と命じている。これを受けた都都熊丸は、ひとまずは使者を送って降伏を請い、併せて島民が対馬に在島したままで朝鮮に帰属すること、都都熊丸に島主の印信(官印)を下賜することを要請した。
これに応じて翌1420年閏1月頃に『宗氏都都熊瓦』(瓦は丸の誤り)と刻まれた印信が造給された。ただし、この印は個人名が刻まれた「図書」(通交用の私印)であり、朝鮮国の官人が使用する「印信」(官印)ではなかった。これは、穏健派であった当時の朝鮮国王・世宗の指示によるものであった。対馬の処遇について、朝鮮国内においても強硬派と穏健派の間で綱引きのような状態であったことがうかがえる。
一方、『宗氏都都熊瓦』印を入手した都都熊丸は、対馬に滞在していた朝鮮使節と早田左衛門太郎を非公式に接触させて、朝鮮への帰属を撤回することを世宗に上申する旨の約束を取り付け、8月にはこの使節と宗氏の主家にあたる少弐満貞が面会し、朝鮮への軍事報復を示唆したという。
この報告を受けた太宗は再び兵船の配備を指示したが、11月には世宗が「対馬側が誠意を示せば軍備を解除する」という決定を下している。そして1421年4月の交渉においては、日本との関係を重視した朝鮮側が妥協し、都都熊丸が誠意を示せば旧来の待遇に復すことが確認されたのである。
その1年後の1422年5月に太宗が没し、9月に都都熊丸とその母が朝鮮に遣使し、朝鮮国もそれを受け入れたことから、対馬との通交が再開されたのである。