少弐嘉頼(しょうに・よしより) 1421?〜1441

少弐氏第10代・少弐満貞の子。
永享5年(1433)8月、幕府の公認を得て北九州に侵攻してきた大内持世との抗争で父の満貞と兄の資嗣を亡くし、叔父の横岳頼房や弟の教頼らとともに対馬の宗貞盛を頼って逃れた。
翌永享6年(1434)には対馬から筑前国に進出して大友持直と結び、1月に横岳頼房が肥前国神埼郡で、大内氏と与同していた九州探題の渋川満直を討つなど反攻の兆しを見せているが、永享8年(1436)には敗れて再び対馬に逃れて宗貞盛の庇護を受ける。
しかし永享12年(1440)に至り、大内持世の取り成しによって幕府より赦免され、筑前守護に任じられる。この経緯は、持世が朝鮮通信使に同行して上洛するにあたり、その留守中に少弐氏が挙兵しないように慰撫するためとも、また、少弐氏を庇護していた対馬では農地が少なく食糧が不足する島であったため、宗一族が朝鮮に渡って食糧を求めていたが、朝鮮としても日本国内の事情から負担を負うことに困惑し、通交の浅からぬ大内氏を通じて幕府へ働きかけたためともいわれる。
この後に本領に復帰したと見られるが再び大内軍の攻撃のために対馬に逃れたともいい、永享13年(=嘉吉元年:1441)1月9日に急逝した。享年21という。法名は大雄本覚。